尖底土器の遺跡

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函館空港第6地点遺跡の土器(市立函館博物館蔵)

 貝殻文尖底土器の遺跡が北海道でどのようなところに分布するかを見ると、函館市内では住吉町、春日町、梁川町、西桔梗、根崎および中野、豊原の各町、函館空港遺跡群第6地点などにあり、そのほか道南地方では七飯町鳴川、南茅部町八木と大船、それに有珠の若生や静内の田原など、かなり多くの遺跡がある。これらの遺跡は海岸に近い丘陵か、旧海岸線の近くにあって、生活面は普通地表から60センチメートルから1メートルのかなり深いところにある。これらの生活面はおよそ8000年以前のものであるから、新しい時代の生活面がその上を覆っていることもある。畑などの地表にわずかの貝殻文土器の破片しかないこともあるが、これは生活面が深いためで、たまたま他の時代の遺跡を発掘していて下層から発見されることがある。函館市住吉町遺跡の発見については大正11年1月の『函館毎日新聞』に馬場脩が寄稿した「疑問の石器時代遺跡住吉町遺跡」と、昭和6年4月の『北方郷土』に詳しいが、その後住吉町海岸で土取り工事によってほとんどが破壊されてしまい、以後20年間は住吉町式土器の遺跡はなくなったと信じられていた。昭和25年春、遺跡を訪れた児玉作左衛門によってわずかに残っていた遺跡が探し当てられた。この調査は5月から2か月間、市立函館博物館が中心となり、児玉と大場の発掘指導で行われたが、当時は北海道で最も古い縄文文化が解明されるものとして注目された。発掘面積はわずか178平方メートルに過ぎなかったが、直径1メートル内外、深さ50センチメートルほどの円形の穴が17個と、野外に設けられた炉から貝殻文尖底土器や石鏃、石槍、磨製石斧(ませいせきふ)、磨製石鑿(いしのみ)などの資料を得ることができた。野外の炉は至って粗末なもので、幾つかの自然石をまとめただけのものであった。付近一帯には焼土と灰や木炭末がひとかたまりになり、壊れた土器が散在していた。土器は口縁部が山形の突起を有するか、または変化のない形をしていて底部が乳房形で丸味があり、先端に乳頭状の突起があるのが特色である。体部の文様は貝殻文と細い棒の先端を連続的に刺突した文様や、刻み付けた線を組合わせた文様がある。幾何学的な貝殻腹縁文の尖底土器は、北海道で住吉町式土器が代表的な土器形式となっている。住吉町遺跡の調査が終ったあと、これと同じ土器が梁川町から発見された。函館では貝殻文尖底土器の発掘は二度とあるまいと思われていただけに、極めて喜はしいことであった。梁川町遺跡は昭和25年の夏、大場利夫の協力を得て市立函館博物館が調査を行った。土器が発見された場所は千代田小学校の裏手、亀田川が西に流れるわずかな空地で、現在の海岸線からは離れているが、低い丘陵の西斜面で、旧海岸線に当る位置である。この遺跡の表土と、駒ヶ岳火山灰層の下層に層序をなしている黒色土層と、黄褐色粘土層の上にある黒褐色土層が生活面であった。地層を注意して見ると、梁川町式土器と呼ばれる撚糸文の土器と、貝殻文の住吉町式土器との生活面があった。この遺跡では貝殻文の生活面より新しい時期に、数種に分類できる撚糸文土器群が埋蔵されていて、このころ北海道では発見例のない土器のグループとして新たに形式名が付けられ、所在地名から梁川町式土器と呼ばれることになった。梁川町式に類似する土器がその後室蘭、静内、釧路で発見されるようになり、現在ではこの時期に新しい文化圏があったのではないかと考えられている。市が根崎公園造成中に発見された貝殻文土器は、住吉町や梁川町の土器形式と異なるもので、工事により切り取られた地層断面によって、黒色土の下に厚く堆積した洪積世火山灰層が現われ、その層にフラスコ形の穴が掘り込まれていて、このピットから出土したものであった。根崎公園の台地は東から西に伸びた低位段丘で、遺跡は丘の先端部にあり、近くを松倉川が流れ、南側が崖で海岸になっている。遺跡の洪積世火山灰層の上に、表土と黒色土層が50センチメートルあまりも堆積していたが、現場は黒色土層が削り取られ、洪積世火山灰層が2メートル以上も削られていたところもあった。比較的層序がはっきりと残っていた工事現場の南壁に、縦断されたフラスコ形ピットが露出していた。造成工事が進んでいて南壁を更に発掘することができず、調査は壁面の観察に頼るほかなかった。フラスコ形と判断されたピットは4か所、(深さ約1.2メートル、底面の直径約1ないし1.5メートル)通常のピットと思われるものが2か所あった。このフラスコ形ピットは墓壙(こう)群と見ることもできる。縄文早期の墓壙群はまだ発見されていないが、中国の北部に当るモンゴル地方の石器時代の墓壙もフラスコ形である。釧路でも縄文早期の墓はピットを掘って埋葬し、副葬晶に土器を入れているが、根崎公園遺跡のピットはまだ破壊されていない地域に人骨が埋葬されている可能性もある。ピットの形状だけでは墓壙とも貯蔵穴とも判断できない。根崎の貝殻文尖底土器は体部に貝殻腹縁文と条痕文が付いていて住吉町式に似ているが、丸味を持った乳房状のものがない。これに類似する土器は、その後函館空港遺跡の第6地点でも発見された。この遺跡は根崎公園の台地に続く低位段丘上に位置し、標高40メートル、海岸から北に800メートル入った赤坂町地内の沢の西側にあり、調査報告書によると約3000平方メートルの範囲に遺物が散在していたところである。昭和43年11月に函館空港整備事業の一環としてこの遺跡も調査されたのであるが、この時期の生活面は、地表から1.1メートルのローム質粘土層直上にある茶褐色土層中にあって、深さ数十センチメートル、200平方メートルのくぼみから集中的に遺物が発見されている。このくぼ地がどういう性格のものか明らかでないが、そこから出た尖底土器は貝殻による装飾文で、地文に貝殻腹縁によるコの字形連続文を横位または斜位に施し、斜行する2本の並行沈線で矢羽状や杉綾(すぎあや)状あるいはZ字状文様に付けている。器形は砲弾形で、口縁部に粘土紐を縦に飾り付けたものもある。根崎の土器よりも装飾文が多く、土器資料の中には絡縄体圧痕文(らくじょうたいあつこんもん)という縄を押圧したような文様の土器や、縄文の尖(とが)り底があるなど住吉町遺跡では見られなかった尖底土器の一群である。

函館住吉町遺跡について(函館毎日新聞・大正11年1月1日)(市立函館図書館蔵)


梁川町遺跡の土器(市立函館博物館蔵)