サイベ沢遺跡の円筒土器(左・円筒下層式、右・円筒上層式)(市立函館博物館蔵)
函館考古会のサイベ沢遺跡発掘と人骨
戦後、北海道の縄文文化の遺跡調査で大規模な発掘を実施したのがサイベ沢遺跡である。昭和24年市立函館博物館による調査で、北海道大学医学部の児玉作左衛門と大場利夫が発掘指導をした。調査の動機となったのは、遺跡の下部に亜炭層があり、露天掘を行うため遺跡が破壊されてしまう事態に至ったことと、サイベ沢の貝塚から縄文人骨が出土したことがあり、発掘によって先住民族がどのような人種であったかが解明できるのでないかとの期待があったことである。終戦後の物資が欠乏していた時代で、記録写真撮影もフィルムが容易に入手できなかったり、民宿している調査員の食糧調達に職員が自転車で奔走したりして、45日間にわたる発掘を終了した。このころの調査といえば、2、3日か長期でも1週間程度のものであった。遺物が出土する包含層が地表から深さ5メートル近くもあって、市内の学生が出動し、堆積土をモッコで担ぎ出したり記録などにたずさわった。この調査によって北海道南部の縄文時代前期から中期の編年の基礎が築き上げられた。
サイベ沢遺跡の状況は、現在函館圏流通センターが遺跡の南側に建設されたが、この一帯は亀田平野の東に発達した標高20メートルの段丘上にある。遺跡のある丘陵を桔梗台地と呼び、扇状地形をなして東側がゆるやかに高くなっているが、西側は段丘が切れて低湿地となり、函館湾へと続いている。サイベ沢とは、桔梗台地を東から西に切り込んだ沢で、遺跡近くでは60メートルほどの沢幅で水田になっているが、川が南の遺跡寄りに流れている。段丘との比高が12メートルで、川が斜面を削り、昭和24年の調査の時は崖に2か所の貝層が露出していた。遺跡の範囲は、国鉄函館本線から西に600メートルの間で、サイベ沢の南台地と北台地にまたがって総面積30万平方メートルにも及ぶ。縄文時代の遺跡面積としては全国でも類のない広さである。調査によると沢の南台地には縄文時代前期から中期にかけての集落地があって、北台地では縄文時代中期に集落規模が拡大した。沢の北側には縄文時代晩期と続縄文時代の遺跡もある。
西桔梗E2遺跡の住居址(『西桔梗』函館圏開発事業団)
円筒土器の主要な遺跡は、円筒下層式遺跡としてはサイベ沢のほか函館市内では西桔梗E1、東山町、見晴町、函館空港第4地点、鶴野町。七飯町の峠下、古小沼、軍川。南茅部町のハマナス野、八木。尻岸内町の古武井などがある。この時期の貝塚はサイベ沢と八木遺跡にあるが、地上に露出することなく、地下に埋蔵され、上部が土壌堆積物に覆われている。サイベ沢遺跡では第2地点に3層の貝層があって、上から第2、第3の貝層は円筒下層式の時代に形成されており、第1貝層は円筒上層式の古い時期のもので、円筒下層式の時代にできた貝塚の上に円筒上層式の貝塚が作られたわけである。八木遺跡の貝塚は円筒下層式の時期に形成され、火山灰層などがその上に堆積している。函館周辺地域以外で貝塚を伴った遺跡は噴火湾沿岸に多く、長万部町静狩貝塚、虻田町入江遺跡、伊達市若生貝塚、北黄金遺跡、室蘭市本輪西ポンナイ遺跡などがある。サイベ沢遺跡のように円筒下層式と円筒上層式の貝塚が併存する遺跡は静狩貝塚、入江遺跡、ポンナイ遺跡である。貝塚から人骨が発見されたのはサイベ沢、ポンナイで、サイベ沢第2地点からはほぼ完全な一体分の人骨が昭和7年に発掘され、昭和24年には頭蓋骨などの一部が同一場所と第1地点で発見された。この人骨は仰臥屈葬の姿勢で頭位を北西に向けて埋葬されており、第1地点では遺体の周囲に自然石が配置してあった。ポンナイ遺跡では大正13年と同15年に計11体の人骨が発見され、その後も貝塚から人骨が発見されている。これらの埋葬方法はサイベ沢遺跡と同じ仰臥屈葬であった。人骨の発見は民族や人種を決める重要な鍵(かぎ)となるものと言える。
円筒上層式の遺跡は、市内サイベ沢、赤川、東山、神山、見晴町、豊原、鶴野の各遺跡のほか、七飯町、大野町、上磯町などの段丘上にもあって、円筒下層式の遺跡よりも数が多い。貝塚が形成されている遺跡はサイベ沢、赤川で、貝塚を伴わない遺跡の方が多い。
遺跡が旧海岸線だけでなく、段丘を切り込んでいる沢に近い位置や、山間部にまで存在することから、漁労のみでなく狩猟も行っていたこともあったと言える。七飯町では大沼公園の小沼に遺跡があって、円筒上層A式が湖岸から湖底に広がっている。標高130メートルの高さである。また大沼公園の東で横津岳の山裾にあたる軍川にシコロタイ遺跡がある。山間部で標高240メートルと類例のない高さの遺跡であるが、この遺跡から出土する遺物は円筒上層A式とB式に限られている。