寛政の蝦夷乱

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寛政の蝦夷乱要図 「根室市史」より

 しかし、北辺の情勢は決して穏やかなものではなかった。ロシア問題が一応落着し、これから旧に復さんとする折から、またしても勃発したのが寛政の蝦夷乱である。この蝦夷乱は、すなわち寛政元(1789)年5月、飛騨屋久兵衛の請負地である、国後および霧多布場所の一環、目梨アイヌによって起こされた動乱で、その直接の導火線となったのは、藩の足軽竹田勘平が上乗役で国後に到着したにもかかわらず、例年のごとくオムシヤも行わず、たまたま病気中のの酋長が運上屋から酒をもらって飲んだところ程なく死亡し、また、番屋から食物をもらったフルカマップの酋長の妻も死亡した。1度ならず2度までも生じた事件に不審を抱き、かねがね請負人の手代番人どもが、ともすれば「おまえらなどは皆殺しにする」といった日ごろの罵詈雑言(ばりぞうごん)、恐喝がついに現実となったものと推量し、アイヌが恐怖と不安と不信にかられ、ついに徒党を組んで爆発したものであった。かくて国後では竹田勘平をはじめとする22人、更に野付水道を越えて目梨に渡り、同地のアイヌを扇動し各地で和人36人を襲殺、また忠類沖に停していた、飛騨屋の手船大通丸を襲って舟子13人、合計71人の大殺戮が行われた。変報を受けた松前藩では直ちに番頭新井田孫三郎・物頭松井茂兵衛・目付松前平角以下、総勢260余人の兵を派遣し、首魁30名を謀殺、7名を獄門にして鎮定した。その風評は天下の耳目をひき、そこで幕府では津軽・南部の両藩に対し、松前藩が要求したならば、即刻援兵を差向けることを命じて待磯させたほどであった。
 しかも当時、幕府要路の間では、「彼オロシヤ人、近年邦内を広げしは、合戦攻撃の業をなさず、唯仁を假り恵を似せて人をなづくる事、彼国の奇法にて、あまたの国々を悉く属従せしめたれば、蝦夷人もかたのごとく衰へ、松前家をうらむるよしを伝へきゝ、奥蝦夷地の島々より段々なづけ、既に廿嶋ばかりもおのれが有となし、猶前に記す如く、ヲロシヤ人度々東蝦夷地の内へ渡来し、是を伺ふことしきりなり。」(『休明光記』巻之1)という考え方が台頭していたので、この騒動も背後にロシア人がそそのかしているという風評にも、大きく動かされたらしく、幕府は普請役青嶋俊蔵を俵物御用掛とし、小人目付笠原五太夫を商人に装わせて随行させ、その真相の探知に当たらせた。
 さいわい騒乱は、ツキノヱ・イコトイ・シヨンコなどのアイヌ酋長らの協力によって、早期に解決されたが、問題は、一切を商人である請負人に依存し、住民を省みようとしなかった松前藩の体質にあった。