漁業の発展

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 このような直轄下の経済機構のもとに、一方蝦夷地の生産状況は、在勤官吏の指揮監督によって、アイヌとの交易ならびにアイヌ使役に不正の行為をなくし、また物品交易は幣害が多いので鉄銭の通用をはかり、秤量を正しくし、物資の供給も請負人の時に比べれば、極めて潤沢となり、撫恤も普及したので、山地に住むアイヌも海浜に出て漁業に従事する者も多く、更に幕府の奨励によって和人の出稼ぎや、あるいは移住して漁業を営む者もあって、直轄地の漁業の発達は著しいものがあったと伝えられている。
 ことに箱館近在の小安、戸井、尻岸内尾札部茅部野田追のいわゆる六箇場所は、享和元(1801)年、新たに村並としたため、来住して漁業を営む者もいよいよ多く、特に江戸に移出される塩鱈の出産が増大し、その正確な産額はつまびらかでないが、享和3年11月難船した奥州牛滝村の船が臼尻村の塩鱈を3万本積込んで、カムチャツカに漂着したということからしても、当時この地方の総産額が飛躍的に上昇していることを物語っている。