文化3年10月4日の夜弁天町河岸の市店から出火し、折から西北の風にあおられて火勢がさかんになったため、奉行羽太正養自ら騎馬で乗出し、消防を指揮した。南部、津軽両藩の手勢もまた繰り出して消火に努めたが、火勢はますますつのり、同町の表通り両側から内澗町まで焼抜け、更に山ノ上町へも延焼し、官の建物では役所下の惣門ならびに門番所、高札場、交代屋敷、仕入物を入れておく板蔵2棟、土蔵1棟、寺院では実行寺、称名寺、浄玄寺、そのほか町家316戸を焼き、市中総戸数の約半数には至らなかったものの、重要な部分が多く問屋などもことごとく類焼を見ている。官では早速町会所に命じて大量の粥を炊かせ、罷災者に給与し、とりあえず山ノ上町の芝屋小屋をあけて仮りにここに収容し、また役所下に仮小屋を設けて、救助米として類焼者に1戸につき米1俵ずつ、収納方元締には5俵ずつ、同手代、寺院および名主などへは3俵ずつを与えた外、多量の米を貸与して応急の措置がとられている。そのほか南部地方から金1000両ほどの材木を買入れてこれを貸与するなどの対策もとったが、時あたかも寒さに向う季節であるのに、窮民らには小屋掛の手当も出来ない者が少なくなかったので、坂下倉庫の焼跡と役所前高札場のかたわらの2か所に仮小屋を建てて、そこに彼らを入れて寒さを凌がせたという。また、津軽・南部両家の手勢が、この火災では格別の働きをしたので、その趣を幕府に上申し、且つ重役を呼出して賞詞を与えた。