馬場正道の学舎

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 箱館におけるこの時代の教育については、前記したと同様にまことに資料が乏しく、これをつまびらかにできないが、『岡田健蔵先生論集』によると、
 
 文献上より教育関係の資料を渉猟すると、京都大学の内田銀蔵博士が嘗て紹介した、箱館奉行羽太正養の秘書であった、江州万木(ゆるき)村の人馬場正通が、文化元(1804)年に此箱館に来って学舎を開き、書を講じたと云ふのである。
 然し惜しいことに間もなく病の為めに江戸に帰り翌年3月17日26歳で此世を去り、遺骸は駒込栄松院清安寺に葬ったと云ふことが其碑文に依って伝へられて居る。

 
と見られる。この正通という人は、元服すると江州の大溝候につかえていたが、のち江戸に出て鷹見星皐の塾に学び、当時佐藤一斎などもいて、すこぶる親交が厚く、一斎や星皐の推薦で勘定奉行中川飛騨守忠英の書物掛を勤め、のち正養の幕僚となって箱館に来たという(岡田健蔵『函館百珍と函館史実』)
 もちろん、その教育の内容は明らかでないが、しかし当時箱館奉行箱館9か所に「正徳の觸書」をかかげ、また「諭書」を出している折からでもあるから、おそらく人倫を説いた儒教的な背景をもったものではないかと思われる。
 一方、庶民の教育である寺子屋も、すでに文化年間には開かれていたらしく、箱館町会所『御触書御仕方人別帳』によると、「文化五辰年職分書、今家数七百五拾四軒の内、寺子屋三戸」が記録されているが、その教師および所在地などは不明である。
 しかし、この時代になると庶民の教育に対する関心も高まり、淡斎如水の『箱館夜話草』(安政4年著)にも、
 
裏町 大黒町という。これはむかし此辺まで海にして、鯡の漁場なりし時、荒木何某というもの漁をいのりの為に大黒天の像を祭りてありし故に大黒町というとぞ、又裏町というは、大町弁天町、本町通りの裏なれば、かく呼びしとなり。此辺は今より四十年前、をのれ等が手習する頃は谷地ぬかりにて、蛙の啼声の、昼といえどもかしましかりし処なるに、今は箱館の真中となりて、昼夜往来のたゆる事なきにいたる。蛙の声に引かえて、浄瑠璃三味線の昼夜たえざる処とこそはなりにける。

 
とあり、また、『岡田健蔵先生論集』でも、このことについて触れ、この著書の出された安政4年から逆算して40年前といえば、文化14年に当り、そのころ如水の学んだ寺子屋があったことを物語っているとしている。
 また、函館新聞の創始者伊藤鋳之助の手記になる『雑記・巻四』によって、この時代の寺子屋を挙げると次の通りである。
 
享和~文化のころ伊豫部某天保五年~同八年まで若山太蔵
稲生某天保八年~安政三年若山藤兵衛
文化末~天保始めころ岡村(二代)某嘉永のころ小野某
文化末~明治初年まで森菊三郎(猨山)蘭斉
天保五、六年ころから富原斧三郎嘉永~明治初年まで松山某
天保~嘉永ころまで小原周平

 
おそらく、文化の末ころ如水の学んだ寺子屋は、大黒町にあった岡村某を師匠とする寺子屋ではないかと思われる。