ロシア使節との応接

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 これよりさき、嘉永6年、長崎に来港して開国を要求していたロシア使節プチャーチンは、クリミヤ戦争の勃発を聞き、英仏艦隊を避けて一旦帰国し、ニコライエフスクに越冬してこの方面の防備に当たっていたが、アメリカと日本との条約締結を知り、安政元年8月、英仏艦隊が冬の結氷期を避けて南下したのに乗じ、ニコライエフスクを出帆して同月30日箱館に来港した。プチャーチンは、箱館で薪水を求め、かつ奉行に面接して江戸に呈する封書を提出した。更にプチャーチンは、これから大坂に行くが、もし江戸で応接するならば、その旨大坂で通告されたいと述べ、9月7日大坂に向け出帆したが、大坂において下田で応接すべき旨の通告を受け、10月15日下田に到着した。
 幕府は、大目付筒井肥前守、勘定奉行川路左衛門尉および浦賀奉行伊沢美作守に命じて応接に当らせ、また、たまたま蝦夷地から帰省した村垣与三郎範正をもこれに加えた。かくして11月1日プチャーチンを福泉寺に引見、会談は同月3日から開かれたが、翌4日はからずも大津波が起こり、停中のロシア軍艦ディアナ号が破損するという事件が起きた。
 このようなことがあって、両国全権の正式会談が再開されたのは11月13日で、場所は下田の玉泉寺に移された。
 なお破損したディアナ号は、君沢郡戸田(へだ)村で修理することになったが、同地に回航中再び暴風雨に遭い沈没してしまった。そこで戸田村で新船を建造することになったが、当時この造船を助けたわが船匠は、これによって初めて洋式造船を習得し、その郡名をとって、この時造ったスクーネル型の船型を君沢形と称した。