ペリー提督上陸会談

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会見の図 「ペルリ提督日本遠征記」より

 ペリー提督が会談のため上陸したのは、それから3日後の4月26日であるが、その前日、提督の使として通訳羅森が来て、明日昼四ツ半時(午前11時)ころ、提督が上陸し一同と会見したいとの申入れがあったので、早速その応接の準備にかかっているが、さきに勘解由がミシシッピー号訪問の節、酒肴等の饗応もあったから、当方でも酒肴を調えなければならないなどと、大変な気のつかいかたをしている。
 こうして当日午前11時約定通り上陸してきたので、手配の通り応接所(山田屋寿兵衛宅)に案内すると、彼らはまず出席者名簿を提出して着座した。これに対し当方からは松前勘解由をはじめ遠藤又左衛門石塚官蔵その他が列席すると、ウイリアムズは書面をもって全権勘解由の信任状の被見を求めた。そこで又左衛門は前月20日松前伊豆守から勘解由に申付られた手控書、
 
今般神奈川表え渡来の亜墨利加船箱館湊見置のため渡来いたし候旨、公辺より御達これあり候に付、其方儀右取扱いとして差遣し候条粗忽の儀これなき様万事平穏に取斗らい申すべく候。

 
を示し、そして彼らの要望でそれを漢文に書き改めて渡した。この信任状を見て安心したらしく、いよいよ会談に入ったが、最も問題となったのは、彼らの箱館における遊歩区域である。すなわち、神奈川条約第5箇条では、
 
一 合衆国の漂民其他の者共、当分下田・箱館逗留中、長崎に於て、唐 和蘭人同様閉籠め窮屈の取扱いこれなく、下田港内の小島周り凡七里の内は勝手に徘徊いたし、箱館港の儀は追て取極め候事。

 
 とあって、この問題は懸案事項としてとり残されていたのである。これにつき彼らは箱館視察の結果、その限界として10里を示したが、この距離は対岸(津軽領)にも達するので応じがたいことを知り、下田におけると同様7里以内をもって決定するべく提案された。もちろんこの問題は、はるかに勘解由の権限外の問題として、1時間余にわたって会談を続けたが遅々として進行しないので、提督は勘解由に対し、夕方まで回答を求めると同時に、市中見学を申入れ、実行寺称名寺浄玄寺八幡社付近まで回り、午後2時過ぎ本船に帰還した。
 なお、午後4時ころベンテウイリアムズ羅森らが回答書を求めて訪れたが、その回答は結論として遊歩境界の決定を拒否したものであった。
 しかし、すでにこれまで彼らの上陸をはじめ、休息所の設置、あるいは需用品の販売などにつき、ある程度の取決めがあったので、アメリカ人は連日上陸して市中を横行し、なかには寺院において賭博を行い、家屋や境内へ闖(ちん)入するため塀を乗越え、商店から物品を持出すなど不当な振舞いもあったと伝えられている。