松前商人の反対運動

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 すなわち、東蝦夷地産物の場合は、たとえ松前城下居住の請負人経営の漁場であっても、松前への回送を禁止し、すべて箱館への回送を強制したのである。これによって、箱館居住の問屋が大きな利潤を手にすることになったことはいうまでもない。けれどもこのような政策が何らの抵抗もなく、スムーズに実施されるはずはなく、松前城下商人たちが大きな反対運動に立ちあがった。その動機となったのが、山田屋文右衛門の請負う石狩川上流の鮭および同人の出稼地、オタルナイ、アツタ、タカシマ場所産物の回送をめぐる問題である。まずその経緯は次の通りである。
 
          乍恐以書付願上
一 ユウフツ御場所の義は、先年御料中祖父文右衛門へ願の通御請負仰付けられ、是迄家業相続仕り、冥加至極有難き仕合に存じ奉り候。随てユウフツ領千年川筋字イサリフト近辺にて漁業仕り候鮭漁下げ方の義は、其頃千年川会所元よりユウフツ会所迄の間、山道通り字ヒヒ迄凡そ二里程の丁隔て、沢々細道にて背負荷駄荷送方弁利宜しからず候に付、イシカリ表へ川下げ仕り、同所へ立船積取り方即年願の通仰付けられ候。且又ユウフツ領千年川筋並イシカリ川筋共鮭漁業の義に付、両所蝦夷人共旧来より争論止む事無く、産業出増不行届に御座候処、前御料中両所請負人並びに双方蝦夷人共え重く御利解仰渡され、已来鮭漁業の節ユウフツ蝦夷人共イシカリ川筋並に浜方へ年々出稼致し、両所蝦夷人共争論なく相互に漁業相励み候様仰付けられ、有難く承服奉り和談相整い、是迄漁業出精仕来り候。前段申上げ奉り候ビビ山道の義も、文政年中道橋普請追々出来上り候に付、イサリフト近辺にて漁業仕り候鮭の義は、車力牛馬にて多分ユウフツ会所元へ浜下げ致し、箱館へ積取扱い罷在り候、尤私領中ユウフツ元場所にて漁業の鮭並びにイシカリ表出稼漁業の分は、惣躰にて御目当高三千五百石に御定ニ相成り、其余出増の分別年積取り候節は、松前箱館両所にて取調べの上、冥加のため百石に付金十七両宛上納、切囲に相成り、翌年積取り候節は、右冥加半高八両二歩宛上納仰付けられ候。これに依てイシカリ表へ出稼致し、元上げ候鮭積取の儀もユウフツ川下げ名代免判にて、是迄松前表より立船致し積取り売捌き来り候処、今般御料に相成り候に付、当年より右荷物御当所へ手船にて積取り売捌き候節は、買積の船々数なく候故、格別の直違い損分に相成り、猶又雇船にて場所表より積取候ても、多分秋田、庄内、越後表へ積付商仕り候間、御当所の儀は、船々出入共彼地へ地里違いにて、秋末の海上に御座候得ば、乗順甚だ宜しからず、船手の者右に難渋仕り候。松前表の義は是迄西蝦夷地出産の鮭積取雇船並びに買積見込にて、年々越後、庄内、秋田辺より船々数十艘入込に付、商内(あきない)人に弁利宜敷、且又船々の義も彼地へ乗順宜敷御座候。これに依て願上げ奉り候も恐多く存じ奉り候得共、イシカリ表へ出稼にて漁業仕り候鮭の義は、私領中の通りユウフツ川下げ御名代御免判にて立船致、松前表へ積取扱い仕り度く存じ奉り候。何卒格別の御慈悲を以て右様仰付下し置かれ候はば、松前表へ御達下し置かれ度く、恐れ乍ら此段書付を以て願上げ奉り候。以上
   安政三辰年       ユウフツ
     五月         御場所請負人
                   松前唐津内町
                    山田屋文右衛門
  御奉行所                代 寿兵衛 
              (『沖ノ口御役所より御達並願書写』)

 
 これは勇払場所請負人山田屋文右衛門が、鮭の回送に閑し箱館奉行所に差出した願書である。これによればユウフツ場所は、いうまでもなく東蝦夷地に所属するが、同場所は場所内を流れる勇払川の上流で、わずかの陸地をへだて、石狩川の上流にあたる千歳川の支流イザリ川、モイザリ川も含まれていた。従ってこの地域の産物は当然勇払浜に出荷し、箱館へ回送されなければならないが、しかしこれらの河川での漁業は、慣例により石狩場所の上対雁(ついしかり)アイヌによって行われ、一方文右衛門は石狩場所にも出稼場を所有していたので、その産物は地理的な条件から船で千歳川を下り石狩川を経由して西海岸に出荷し、そこから更に松前に回送するのが通例となっていた。ところが今回箱館奉行の通達により、東蝦夷地の産物はすべて箱館回送と決定されたため、ユウフツ場所の生産物である限り、たとえ石狩川を下げ、日本海を経由しても、箱館まで回送しなけれはならなくなったのである。それではあまりにも不利不便であるところから、旧来通り松前回送を嘆願したものであった。
 もちろんこの文右衛門の要望はただちに拒否されてしまった。その後も幾度か「再願書」「追願書」を提出して訴えたが、奉行所は原則を曲げるわけにはいかないとして、許すところとはならなかった。しかるに、この動向を注目していた城下の請負人たちは、幕府の強行政策がこのまま実施されるならば、「東蝦夷地請負人は申す迄もこれなく、御料所付一同より西蝦夷地へ出稼差出し、ユウフツ類例の願立にて出産物箱館表へ積取りに相成り候ては、請負人莫大の迷惑仕り」として、たとえ名目とはいえ、石狩川下げ鮭の箱館回送に強く反対する動きを示したのであった。しかしこれら松前請負人らの要請は承認されず、あくまで箱館回送の原則を貫いたようである。
 幕府が、それではなぜこうした商人の抵抗をふり切って、東蝦夷地の産物を箱館に回送することに執念をもやしたのか、それはいうまでもなく、幕府の蝦夷地経営の拠点である箱館に、東蝦夷地の産物を強制的に回送させ、箱館沖ノ口役所での流通課税(沖ノ口口銭をはじめとする諸役銭)を増大させることによって、蝦夷地産物の生産、流通過程から生ずる利潤に直接くい入ろうとしたに外ならなかった。従って幕府再直轄以降箱館沖ノ口収納金は飛躍的に増大した。