「和魯通言比考」
英語とともにロシア語も必要となり、ロシア領事館についてこれを学ぶ者があり、山東一郎などはその1人であった。箱館へ着任の前年(安政4年)、日露辞典『和魯通言比考』(橘耕斎補)を出版したロシア領事ゴスケウイッチは、着任後も長崎奉行に依頼して露語通辞志賀浦太郎を雇い、両語の疎通につとめた。箱館奉行も、この浦太郎の必要性を認め、正式に長崎奉行に照会してついに支配の通詞に採用した。健順丸操縦の露人に付いたのも浦太郎であった。
慶応元年7月、幕府は山内作左衛門、市川文吉、田中次郎、大築彦五郎、緒方城太郎、小沢清次郎及び志賀浦太郎の7人を箱館から露艦に乗せてロシアに留学させることにしたが、これは浦太郎が、文久元年の幕府のオランダ留学をまねて、自分もロシアに留学しようと画策し、ゴスケウィッチの口から幕府に進言させたものといわれる。ところが樺太境界画定の件でロシアから代理公使が来るというので、浦太郎だけはこれに加わることができなかった。ロシア留学は幕府の財政的理由で1年2か月で文吉だけを残し、他は境界画定談判のため赴いた小出秀実一行とともに帰朝した。
ロシア領事館には、またイワン・マホフという館付の司祭がおり、文久元年『ろしやのいろは』という露語入門書を印行している。その序文に「ヲロシヤノ、サムライハ、ニッポンノコドモ、ミナニ、シンモツ、ロシヤノイロハ」と記しているから、日本の子供向けのものとして書いたことがわかる。このあとに来た司祭ニコライも邦人に露語を教えている。
安政6年10月、フランス領事館付書記官としてきたメルメ・デ・カションは、天主公教会の宣教師であるが、『英仏和辞典』『宣教師用会話書』『アイヌ語小辞典』などを箱館で編集し、私塾を開いてフランス語を教授した。塩田三郎(のちの公使)や立広作も、彼からフランス語を学んでおり、4年足らずの滞箱であったが、フランス語播種の功績は大きい。栗本匏庵も奉行の命で彼から仏語を学び、また逆にカションに日本語を教えるという交換教授を行っている。
「ろしあのいろは」