「箱館夜話草」
町人学者としては渋田利右衛門とともに淡斎如水がいる。如水は蛯子吉蔵といい、箱館の旧家蛯子の一族で、亀屋七郎右衛門とも称し、嘉永のころ京に上り、その旅装が軽快で蝸牛(かたつむり)の殻を背負ったようだとして、公家衆から蝸牛舎(かぎゅう)の俳号をもらった。和漢神儒仏の諸学に通じ、博覧強記、著述編纂すこぶる多い。特に『松前方言考』『箱館夜話草』などは、地元人による初めての風俗、地誌の成果であり、『休明光記遺稿』は羽太正養の『休明光記』を補うものとして貴重である。このほか『三島記』『カラフト廻島記』『烏都魯府戦争記』『武林実秘淡斎記聞』などの著書がある。清商陳玉松が昆布を購入しようとして見本を持参したが、古くてなんであるかわからず、柳屋藤吉(開港当初の貿易商)が、その鑑定を如水に依頼して昆布であることがわかり、昆布輸出が盛んになったとの挿話もある。箱館きっての学者といわれながら、生年、没年ともに不明で、慶応のころ山ノ上町甲屋で追善前句の献額執筆中発病し、自宅で死んだと伝えられる。