前期末には「年ヲ逐ツテ盛大ニ赴カントスル」と推測された刻昆布製造業は、20年をピークに清国向け輸出が減退しはじめた。加えて印の製造元小林重吉は昆布価格の低落により漁場経営が不振となり、23年には印高橋清作へ東川町の工場を渡すことになり、23年に参入した久米田与三右衛門と高橋清作の2人が20年代の主力営業者となる。鶴岡町の工場と西川町の工場は、21年と26年に脱落した模様である。製造額も23年および25年では、1万5000円に低下している。しかし、高橋、久米田両者とも品質の向上には熱心で、高橋の製品は商品標本として商業学校の標本陳列場に陳列(24年6月7日「函新」)されたり、また製品の外函も従来の縄掛けを薄鉄葉の釘打ちに改良するなど費用を惜しまず、そのため需要地の上海では他品より常に1、2割方高価に販売された。また久米田が23年の東京博覧会に出品した製品は、その光沢あることならびに細きこと恰も紡績糸の如しと横浜の清商から賞美され、受注(23年3月18日「函新」)があった。こうして函館の刻昆布は印、印の製品をはじめとして上海で好評を博し、30年代には新規の参加者が増加する。清国への輸出港別の順位は、横浜、神戸に次ぐが、輸出数量合計に占める函館の割合は、29年度の9.9パーセントから33年には20.0パーセントに、価額割合では29年の12.4パーセントから33年には21.0パーセントへ上昇している。 ところが、30年10月に刻昆布劇薬混和販売事件が発生する。函館警察署が刻昆布業者7名に対し、刑法第253条の人の健康を害すべき物品を飲食物に混和して販売するの罪に該当するとして、製品の押収告発の手続をとったのである。商業会議所では事件解決のために農商務省へ建白書を提出している。この事件は製品の分析依頼や訴訟裁判を経て、32年6月に道庁よりの着色許可があり一件落着するが、このあと業界では輸出品同業組合法による同業組合の設置を申請し、9月に道庁の許可を得ている。そして、34年は開港以来未曽有の輸出量128万斤となった。38年、業者9名の製造量は122万斤、価額は4万8800円であった。35年以降の状況を工場別に表9-24で示した。 |
表9-24 刻昆布業者の状況および製造額
名称 | 高橋 | 阿木 | 加藤 | 畑中 | 高橋 | 渡辺 | ||||||
所在地 | 旭町 | 栄町 | 東川町 | 栄町 | 栄町 | 東川町 | ||||||
創立年月 | 明治23年12月 | 明治31年3月 | 明治33年1月 | 明治33年11月 | 明治35年3月 | 明治35年5月 | ||||||
事項 年次 | 製造額 | 職工 男/女 | 製造額 | 職工 男/女 | 製造額 | 職工 男/女 | 製造額 | 職工 男/女 | 製造額 | 職工 男/女 | 製造額 | 職工 男/女 |
明治35 36 37 38 | 5,250 5,250 2,340 6,000 | 4/14 4/14 4/14 4/14 | 4,500 4,500 3,776 7,000 | 3/10 3/10 3/10 12/12 | 7,500 7,500 3,202 7,000 | 6/18 6/18 4/14 3/12 | 2,500 2,500 2,736 6,600 | 3/10 3/10 3/10 3/8 | 4,800 4,800 4,212 7,000 | 4/13 4/13 4/13 3/10 | 6,000 | 3/10 |
名称 | 井 植田 | 森 | 阿保 | |||||||
所在地 | 大森町 | 大森町 | 大森町 | 東川町 | 大森町 | |||||
創立年月 | 明治37年8月 | 明治38年1月 | 明治38年9月 | |||||||
事項 年次 | 製造額 | 職工 男/女 | 製造額 | 職工 男/女 | 製造額 | 職工 男/女 | 製造額 | 職工 男/女 | 製造額 | 職工 男/女 |
明治35 36 37 38 | 4,000 | 2/8 | 4,000 | 2/8 | 1,200 | 2/8 | 2,550 | 3/10 | 5,250 | 5/15 |
『北海道庁勧業年報』より作成.ただし、同書数字は各年間で精疎の差が甚だしく統計表としては不完全であるが、他に依拠するものがないので、あえて引用した.
ところで、刻昆布製造業の実態は在函清国商人の製造請負であった。つまり、製品はすべて居留の清商が買取って上海へ輸送する販売方式であるため、業者は製品をなるべく早く販売しようとして清商に競売する。請負価格は上、下の格差が開き一定せず、商権が清商に掌握されている実情で業界への参入脱落が激しかったのである。神戸、横浜港と製品の輸出で競合する函館の業者は、輸出の運賃では不利、しかも職工賃(職工はすこぶる熟練を要するので常に特約して雇った)は本州より割高であったから、競争に打ち克つためには、下等の製品は製造せず、上等、中等品の生産に専念したが、その状況は次の一文で知ることができる。「函館製刻昆布ハ東京、大阪ニ産スルモノヨリハ其ノ製造親切ニシテ、量目ヲ増加センガ為メニ塩水ニ浸シ、或ハ着色上奸手段ヲ弄スルガ如キ事ナク、荷造モ亦他産ノモノニ比シ遜色ナク大ニ優等ナリ」(東京高等商業学校『北海道輸出昆布調査報告書』)。なお、原料の昆布は東京の業者は主として陸中、陸前の産を用い、大阪の業者は主として北海道産を用いたが、函館の業者は根室産の3等の昆布が8割、残りが厚岸、釧路、国後、三石、様似産であった。