段丘形成と人類

12 ~ 14 / 1205ページ
 函館や函館周辺の段丘ができたのは、前述のように第四紀の洪積世に入ってからで、鳴川面と鱒川面を除く段丘の成因は海退や海進によるものであった。現在の段丘面に標高一〇〇メートルまで海水が覆っていたなどとは想像すらできないであろうが、氷河時代があって、日本列島や大陸などがその影響を受けた時代がある。地球が冷却して氷に閉ざされると、海水面が低下して陸地が広がり、温暖になって氷が溶けると海水面が上昇して陸地が狭くなる。海進とか海退とはこうした海水面の上昇や低下をいうもので、これによって段丘が浸食を受けたり形成したりした。洪積世の段丘形成は海岸段丘の場合が多く、沖積世の段丘形成は河岸段丘が多い。幾つか形成された段丘の成立年代について瀬川らの報告によると、渡島半島の海岸段丘で資料となる木片が発見されているのは、日吉町段丘とそれに対比される段丘である。長万部段丘、日吉町段丘熊石町中位段丘と知内、上ノ国、江差の海成段丘で、14C年代測定によると三万三、六〇〇年から二万三、六〇〇年と年代差が出ているが、日吉町段丘堆積物とその上の銭亀沢火山灰層との間から出土した木片の年代は古い。年代の新しい知内と熊石を除くと三万年代である。この中位段丘が渡島半島で形成されたころは、青森県でも同じように海水面が低下して津軽海峡が地続きとなり、海峡の東側が入江のような形をしていた。北海道大学の湊正雄による後氷期の研究によると、二万年代になってから海水面が上昇し、約一万八千年代になると津軽海峡ができたという。

西桔梗の丘陵と段丘面


西桔梗の丘陵と段丘面

 人類が北海道で生活するようになったのは、日吉町段丘など中位段丘が形成されてからである。現在の集落の発生が段丘の河川流域にあったように、人類の生活と段丘とは密接な関係にあって、先住民族の遺跡も段丘上に残されている。北海道で初めに人類が生活したのは札幌低地帯の千歳市の海成段丘と十勝平野の段丘上である。今から二万三千年代で寒冷な気候であった。マンモス動物群がいたころなので、彼らをマンモスの狩人と呼んでいるが、旧石器時代の終りになると渡島半島にも遺跡が発見されるようになる。
 亀田の段丘では、赤川段丘日吉町段丘、西桔梗面、火山扇状地、沖積段丘に先史時代の遺跡が分布している。地域によっては段丘に分布する遺跡の時代と段丘の時期が関係することもある。洪積世になると人類が北海道に定住を始め、沖積世になると縄文遺跡も多くなり、海進、海退によって段丘ができるところもある。一万年前以降であるが、これを地質学では沖積段丘と呼び、海成に限らず河川によって形成する河岸段丘もある。人類は生活しやすい場所を自由に選択できた。その時に形成された段丘に生活の場所を選んでいると、遺跡から発見される資料によって段丘の成立年代が明らかになる。また、生活の必要性によって、すでに形成されていた段丘に生活の場を求めることもある。亀田には広大な段丘が発達して縄文時代の遺跡も多く、桔梗にある大規模なサイベ沢遺跡は有名である。段丘と遺跡が特に関係あるのは日吉町段丘の西桔梗面と、更に低い函館平野にある段丘の遺跡である。縄文早期の遣跡は普通中位段丘にあるが、亀田ではこの低い段丘にしか見当らない。この段丘は洪積世の粘土層で、縄文早期の生活面がある。その上面は厚い沖積の腐植土層で覆われており、一段と高い西桔梗面との差は一〇メートルほどであるが、段丘崖(がい)に浸食面が見られ、しかも西桔梗面の遺跡は縄文前期の後半からの新しい遺跡である。この縄文前期の後半から中期にかけてのサイベ沢遺跡には貝層があって、現在では考えられないほど大形のハマグリやアサリの貝殼が出土している。これは縄文時代の海進、海退を示すもので、洪積世の最後の段丘が形成され、縄文早期の人類が住んでいたが、縄文前期の前半になって海進が始まり、人類が低位段丘に住めなくなり、西桔梗面に移動したが、その数千年間に函館平野の低地部にハマグリやアサリが繁殖したあと海退期に入ったのである。この洪積世の低位段丘は函館段丘に比定できよう。函館段丘の遺跡は縄文早期の梁川町遺跡と、縄文早期後半から縄文前期前半の千代ケ岱遺跡がある。亀田の低位段丘と函館段丘の標高には差があるが、現在に至るまでの八、〇〇〇年近い年数の間に地殼変動などによる段丘の変化があった。