半農半漁の村

80 ~ 81 / 1205ページ
 鍛冶村の地名に関係がある最初の文献は『新羅之記録』で、「志濃里の鍛冶屋村に家数百有り」と記されている。当時の地図や記録は主として海岸部より記されていないため、「志濃里」という地名が示す場所は海岸地域に限られているように見られるが、鍛冶屋は焼入れのために良質の水を求め、塩風をきらうところから、主に内陸部に居を構えることや、後代の鍛冶村が内陸部に位置するところから、現在の函館市志海苔町付近から鍛治町、神山町付近一帯の地域を示すものでないかと思われる。
 この時代に数百軒も家があり、鍛冶屋が存在していたということは、当時本州からの移入鉄器だけでは需要がまかないきれず、必要とされた漁業用、農業用その他、日用品的な鉄器が当地方特産の砂鉄及び本州から輸入された鉄材により製造されたものであろう。
 「家数百有り」とまでいわれるほど栄えていた鍛冶屋村も、康正二(一四五六)年以後の蝦夷との戦いによりすっかり荒廃し、後一〇〇年間は和人居住者を失ってしまった。
 その後松前氏による統一事業が進み、蝦夷地が平定され、再度和人が渡島地方の海岸部に、漁業のために居住するようになり、以前鍛冶屋村と言った地域にも本州方面から移動して来る者が出てきたようである。
 『各村創立聞取書』から抄出すると
 
○天正十(一五八二)年 小柳善右衛門の祖善右衛門、津軽地方より移住。
○正保四(一六四七)年 高村卯之助の祖辰之丞、南部地方より移住。
○明暦三(一六五七)年 覚右衛門の祖徳右衛門、南部地方より移住。
○元禄六(一六九三)年 荒川喜平治の祖、弁之助と云者南部鹿角より移住。
○元禄八(一六九五)年 水島六蔵の祖、六郎と云者志苔村より移住(注・六蔵は元禄六年伯耆国から志苔村に来村していた)。
○慶長四(一五九九)年四月 小柳善右衛門小祠を建築(注・現在の鍛冶村稲荷神社の前身)。
 
 とあり、明治時代の初めころに聞取られた資料なので、やや確実性に欠ける面が見られるが、鍛冶村(以前は鍛冶屋村と呼んでいたが、後に変化して鍛冶村となる。資料的には天明六年の『蝦夷拾遣』で鍛冶村の村名が使用されている。)では、十六世紀後半から十七世紀後半にかけて津軽、南部地方から直接あるいは一度箱館から戸井付近の海岸線に居住し後に鍛冶村に移住して来たことが推定される。
 時代は下がるが、松浦武四郎の『蝦夷日誌』(函館市史史料編第一巻所収)(弘化二~四年の状況)に「鍛冶村、又梶山村とも云也。(中略)畑作りのみ、又山稼も有、然し漁時の時は皆浜に下りて漁事をなす。此村より日々箱館へ薪并野菜を馬に負せてうり来るを渡世とす。」とあり、江戸時代末期のころも半農半漁であったことが知られる。