荒廃から保護へ

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 前松前氏時代の林業は、主としてヒバ(別名アスナロ)を中心にしたもので、取締りのための役所や法令も主産地である江差・上ノ国方面を重点としていた。また当時の林業は伐採を中心としており、山火事や盗伐を防ぎ、保護策をとってはいたが藩財政の必要上から伐採を許すなど、保護政策も十分ではなかった。このため道南地方の主な森林は荒廃しつつある状況であった。こうした中で幕府の蝦夷地直轄が始められたが、幕府により派遣された蝦夷地御用掛はこのような状況をとらえ、享和元(一八〇一)年から取締りを強化するとともに苗圃を試設し、植樹を奨励するなど森林を保護育成しようとした。
 しかしこのような御用掛の政策にもかかわらず、百姓らは森林を育成するだけの生活の余裕がなく、しかも水田耕作や畑作と違い、すぐその年のうちに生活の糧となり得なかったために、積極的に取り組もうとする者は少なかった。
 このような情勢の中で、『小林重吉事蹟概略』によれば、上山村枝郷栖原村を開いた栖原半次郎は、文化元年同所の開発と同時に杉二千本、松千本および渋柿などの苗を内地より購入したとあり、このように農民個人では植林はできず、資本を持った農業経営者が、ある程度の利潤を見越して資金を投入しなくては、当時森林の育成はできなかったものであろう。なお、『栖原家家譜』によれば、文化二年場所請負人栖原覚兵衛は、上山村の未開地の開墾を出願し、農民を内地より募移し、田畑を開墾するとともに、杉苗二千本を植栽したとあり、前記のものと内容、年代が少々異なっている。
 また『箱館御収納廉分帳』(函館市史史料編第一巻所収)から要約すると、文化年間(一八〇四―一七)、百石以上の船を建造する場合は、箱館近山を除き、六か場所において許可を受け、木材を伐採し、規定の税のほか、百石につき松・杉・椴松・センの類の苗木百本ずつを箱館山に植付けさせ、これができない時は、苗木一本につき、二〇文ずつ納めさせたと記されている。このことにより、六か場所(小安、戸井、尻岸内尾札部茅部、野田生)から木材を伐採することは許可されていたが、箱館、亀田付近よりの木材伐採は許可されていなかったことがわかる。
 その後文政五(一八二二)年には、「合船苗木代納 壱本に付銭弐拾文づつ 但、百石目に付苗木百本の積 沖ノ口役所にて取立」 (同右資料)と記され、最初のころと異なり、苗木が当事者によって植えられることなく、すべて代銭納として沖の口役所へ納入されるようになった。