『新羅之記録』は、松前藩4代目藩主氏広が幕府の命により叔父景広に編纂させた公文書である。この中に、寛永17年(1640年)6月13日に起きた北海道駒ケ岳噴火(寛永の噴火)と大津波の災害状況の記録があり、昆布漁に従事していた人々の遭難の様子が記述されているので抜粋する。(なお本文は漁業の章 江戸時代の昆布漁を参照)
「寛永17年6月13日駒ケ岳が噴火して大津波がおこり百余隻の昆布取舟に乗っていた人々はことごとく溺死した」とある。これに関連して『松前年々記』には「津波で商船の和人、蝦夷人合わせては700人余りが溺死した」。『福山舊記録』にも「津波が、商船や蝦夷人の舟を襲い、舟人700余人を溺死させる」とある。両文書とも昆布採取の和人・アイヌ合わせて700人余り溺死とある。和人の人数について不明であるが、これらの記録から、駒ケ岳寛永の噴火時、南茅部から砂原海岸にかけて相当数の昆布採取の入稼や昆布の買付人があったことが確かめられる。
当時の昆布漁の足跡を辿れば、銭亀沢から石崎、戸井、尻岸内と下海岸を東に進み、恵山岬を回り椴法華へ、そして、噴火湾沿岸の尾札部・臼尻、鹿部へと進んだと推察される。
したがって郷土への入稼は、少なくとも、1640年以前からあったと考えてよい。言い伝えによれば、恵山大権現が祀(まつ)られたのが1666年といわれており、大権現の御神体3体の合祀でその1つは金毘羅大権現である。入稼の人々は潮の流れが速く複雑な恵山岬に、守護神として航海の神である金毘羅大権現を祀ったのではなかろうか。
当時の入稼は、松前城下の村々から沿岸伝いにやって来る人々と、対岸から津軽海峡を渡ってやって来る人々とがあったと思われる。前者については昆布漁期のみの入稼であり、後者については、土着する人々もあったのではないか。