「箱館六ケ場所」とは、小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・野田追の6ケ所に分けられた漁業交易区域(商い場)をさす地名で、現戸井町字小安町以東、恵山岬をまわり噴火湾沿岸の八雲町東野までの地域であるが、いつから、このように呼ばれるようになったのかは詳(つまび)らかではない。なお、この全地名、箱館六ケ場所が記録として表れるのは次節で述べる『村並化』および、それ以降である。
「箱館六ケ場所」の漁業交易区域としての成立は、松前藩主が家臣にこの区域を、給地(米に代わる禄高)として与え交易を認めたことに始まる。この給地を「商(あきな)い場ば)」または「場所」と呼び、アイヌとの交易の場所と定めた。この制度を一般に「商場知行制」とよんでいる。
「商場」の地名が記録に残る一番古いものは、前述、津軽一統志、1669年(寛文9年)頃で、のたあい(野田追)の「新井田権之助・商場」である。六ケ場所の内松前城下から最も遠く、しかも、主要産物である昆布の成育があまりよくない野田追が、他の区域にさきがけて「商場」となったのは、松前蝦夷図、1718年(享保3年)にも特記されているが、この海域が、当時、幕府重臣らに精力剤として珍重されたオットセイの生息地であったからではないかと推測される。
なお、1695年(元禄8年)には、茅部が「商場」として記録に表れていることから、六ケ場所が順次「商場」として成立していったのは、元禄期(1688~1703年)頃と見てよいのではないか。