明治11年6月5日、開拓使乙第19号布達「総代人撰挙法及総代人心得」布達

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 従来の「惣代・副惣代」という名称が『総代人』と称されるようになり、町・村2名の総代人、1小区2~4名の総代人が選出されるようになった。この総代人の選出法について、町村の選挙権は、当該町村に本籍を有する者で20歳以上の男子で、支庁管内に不動産を有する者は当該町村2名の総代人を選出することができることになり、被選挙権は、総代人選出の条件に加えて、管内に100円以上の地券を所有する者、あるいは中等以上の身代で管内に不動産を所有することが条件とされていた。また、小区総代人の選出については、大区内町村総代人の中から互選により選出することとなった。
 
 総代人選挙法
明治十一年六月五日 乙第十号布達
九年十月第百三十号公布ノ趣モ有之ニ付、総代人撰挙及総代人心得書別紙ノ通相定候条、右ニ準拠早々撰定ノ上来ル九月迄ニ管轄庁ヘ届出ベシ。
第一条 一町村毎ニ(一町中ニシテ数丁アル者ハ合テ一町トシ、又村ハ本村ニ合テ一村トス、若戸口寡少ナル他ハ数町村ヲ合併シテ、便宜ニ任ズルモ妨ナシ)年齢二十年以上ノ男子ニシテ管内ニ百円以上ノ地券ヲ有スル該町村本籍ノ者二名撰挙シテ、コレヲ町村総代人トナス。
但シ百円以上ノ地券ヲ有スルナキ町村ハ、中等以上ノ身代ニシテ、管内ニ不動産ヲ有スル者ヲ撰ブベシ。(以下 省略する)
 総代人心得
第一条 総代人ハ九年十月第百三十号公布ニ依リ、金穀公借共有物取扱土木起工等ノ事ニ預ルヲ以テ本務トナスト雖、時宜ニ寄リ人民ノ利害得失ニ係レバ之ニ干預スル事ヲ得。
第二条 前条ノ場合ニ於テハ、実際民情ヲ酌量シ、宜ク公利公益ヲ目的トシ、必シモ軽挙アル可ラズ。
第三条 九年第百三十号公布第二条ノ場合ニ於テハ、該条但書ニ依リ其代理トナルヲ得ベシ。
第四条 小区総代人、町村総代人管掌ノ区分ハ唯事ノ大小等ニ寄ル者ト雖、第百三十号公布第一条ノ場合ニ於テハ其別ナキ者トス。
第五条 総代人ノ集会ハ小区ナレバ区戸長、町村ナレバ戸長用係出席スル者トスル。
第六条 総代人ハ給料ナキ者トス、然レドモ公用ニテ旅行スル時ハ、用係ト同ク旅費ヲ給ス。
 
 このように総代人選挙法・心得など規則は作られたものの、全町村・全小区一斉に、また必ずしも、総代人が選出されたわけではなかった。それは、人口や有資格者などの問題もあり、規定どおりにはいかなかったのが実状である。
 この、町村総代人・小区総代人は、明治13年1月、大小区が廃止(後述)され、郡区町村制の実施となったため、同年、7月8日付けで「総代人選挙法・総代人心得」の一部を改正、制度は明治39年の1、2級町村制の施行まで存続する。
 郷土尻岸内村総代人については、<尻岸内本村>選出総代人の松本勝三郎・秋田多三郎・野呂丑蔵・松本福松・野呂平吉・三上三五郎・浜田栄助・松本福松・高橋常之助と、<支村>選出の総代人の大坂力松・佐々木音右衛門・佐々木音吉(以上根田内村)の2名がそれに当たった。なお、総代は部落民の総意により選出された。
 なお、明治13年7月8日付で改正された「町村総代人、郡総代人の選挙法・心得」については、町村議会議員制度が敷かれるまでの間の、行政に住民の代表が参与する選挙法と、心得(職務)を知る上で重要な資料であり資料編に、その全文を記載する。
 また、総代人心得(職務)の内、次の条項については、特に、注目したい。
 
 第6条 町村総代人は、其町村内の経費を予算し、及び其賦課法を定むべし。
 第8条 町村総代人は、其町村内に割付したる戸数割税を徴する為め、各戸出金の乗率を定むべし。
 
 この条項から、町村総代人の職務の1つとして(あるいは重要な)、その町村内の課税−賦課法・税率について定める職責を負わせられていたことが分かる。
 
戸長・副戸長の任命
 第18大区戸長、1小区の副戸長の任命についての資料は見つからなかった。ただ、全道大小区画施行以降、明治11年・12年の文書に戸長及び副戸長の氏名を見つけた。
 副戸長については、明治11年「地位等級調・18大区1小区 尻岸内村」に「副戸長飯田東一郎」の署名捺印がある。また、明治12年「亀田・上磯・茅部・山越 4郡漁業資金貸与書類・尻岸内村字古武井・12年2月5日付」にも同じく「副戸長 飯田東一郎」の署名捺印がある。この飯田東一郎については、同11年1月の「管内戸数・人口・寄留町村別調(民事課戸籍係)」及び「戸数表・明治10年第18大区1小区(同課同係)」に「右区副惣代 飯田東一郎」として同、増輪半兵衛と連記、署名捺印している。このことから、飯田東一郎は初め1小区の副惣代に任命され(年月日不詳)後、副戸長に昇格したのではないかと推測する。なお、飯田東一郎は、その後、出身地である尾札部村が所属する第18大区2小区の副戸長として転出し、茅部小安、戸井3か村戸長に昇格している(明治12年官記辞令録)。
 戸長については、明治12年1月「郡村別出入寄留戸数表(民事課戸籍係)」に同年7月付「第18大区戸長 阿部正義」の氏名捺印が見られる。
 戸長、副戸長の人事について、(同じ第18大区の)森町史・砂原町史には、その任命自体に不明な点が多く、また、短期間に転出入あるいは昇任・昇格が頻繁に行われたことを記している。これは、大区の行政責任者である戸長・副戸長が、開拓使の意図するような人材の確保が進まず、また、組織のねらいどおり機能しなかったからなのではないか、と推察する。18大区の区長という職務については、その存在についても不明である。
 大小区画の方針・ねらいは戸籍編成と同時に、郡ごとに村々を包括した規模の大きな地方団体を組織することにあった。いわゆる中央集権の地方への浸透である。戸長・副戸長は、政府−開拓使−支庁(出先の行政機構)の最先端の行政職として、このねらいを機能することを考慮しての人事配置であった。しかし、必ずしも北海道では、その成果を上げることはできなかった。そして、明治12年7月23日「郡区町村編制法」の公布によって、わずか3か年間で、北海道大小区画は廃止されたのである。
 
区務所の設置と行政管轄
 茅部郡下第18大区の区務所は森村に設置され、1、2、3小区、小安村から落部村までの17か村を管轄したわけであるが、この区務所の所在について、森町史には「この区務所についての記録が少なく、不詳の部分が多いのが残念である…中略…設置年月日もその場所も分からない。『森郷土誌』には、明治8年、官、第18区務所ヲ置カレ村務ヲ処理ス。と記されているが出典が明らかでない」と記している。
 明治5年以降、茅部郡には開拓使・函館支庁の出張所が、戸井村(5年10月~10年4月5日存続機関)砂原村(5年2月~8年3月7日同)森村(5年7月~10年4月5日同)の3か所に設置され、明治6年の大小区画制施行後も、これらの出張所は存続し機能していた。6大区1小区の小安村、戸井村、尻岸内村と2小区尾札部村枝郷の椴法華(地理的条件から1小区に所属、後、独立分村)は、この戸井出張所の管轄下であり、すべての公務は戸井村で行うことができた。
 しかし、全道大小区画に改定後は、前述のとおり1大区(1郡)1区務所となり、茅部郡下、17か村の公務はすべて森区務所へ出頭しなければならなくなったわけである。これにより、小安、戸井、尻岸内椴法華の村々は、冬期間や悪天候が続く時は海路を使うことができず、陸路、峠道から危険な川汲峠を越え尾札部村経由で行くか、積雪時には一旦函館へ出て、札幌本道(現在の国道5号線・明治5年7月10日函館、森間開通)経由で行くか、いずれにしても大変困難な行程を強いられることになった。当時の下海岸は人口も多く、漁業生産高(納税額)の多い地域であったにも関わらず、その実態も考慮されず、まさに、住民不在の行政改革だといわざるを得ない。
 
亀田郡編入運動
 このような実態から、明治11年には、郷土尻岸内村、小安村、戸井村、椴法華村の4村挙げて、区務所が亀田村に設置されている「第17大区の亀田郡」への編入を陳情することになった。以下は、これを請けて、開拓使函館支庁(函館書記官)が東京書記官・太政大臣三条實美宛て提出した郡村組替え伺いの書面と、同じく、開拓長官黒田清隆から太政大臣三条實美宛ての書面である。いずれも明治11年3月23日付であり、当時の、下海岸4か村の切羽詰まった事情が如実に記されている。
 そして、これに対しての、東京書記官から函館書記官宛ての回答がある。
 
<郡組替え伺い(願い)>              (道立文書館蔵)
 明治十一年ヨリ十三年ニ至ル
 郡村組替一件書類
第二百二十一号
 東京書記官                   凾館書記官
 渡島茅部小安村外三ケ村ヲ亀田郡へ組入等之義ニ付別紙元第廿九号伺書差出候右ハ兼テ御承知之通椴法華村ヨリ尾札部村迄之間、凡三里(但シ陸里ナシ)懸崖絶壁陸路ヲ阻隔シ 従來渡海ニテ通路致來候得所謂惠山ノ傍ニテ常ニ風波険悪處候ニテモ天気都合ニ依テハ兩三日或ハ四五日モ風待不致候事デハ渡海難相成ニ付 亀田郡石崎村迄立戻リ川汲越山道ヨリ通行候儀間々有之 冬季ニ至リテハ別テ風波悪シク殊ニ川汲越山道モ雪害有之不得止札幌本道ニ出テ森村ニ至リ迂回候程之儀モ有之 然處該區區務所ハ現今森村ヘ設置有之公布配達人民願届等百般之事務ニ至リテモ甚ダ不便ヲ極メ候 而己ナラズ地形ニ於テモ亀田郡ヘ組入候方致當ト被且該村人民ヨリ出願之趣モ有之伺出候儀ニテ 客歳内務省乙第八拾三号御達之趣モ有之候得共 前陳之事情御洞察極至急御許可相成候様御取計有之度 太政官御伺案始布告達案及略圖共相添此段及御依頼候也。
 明治十一年三月廿三日
追テ本文御許可之上ハ實地ヘ就キ經界相定メ地圖相添御届之積ニ候此段申添候也。
 
 郡村組替ノ義ニ付伺
 當使管内十八大區渡島茅部郡ノ義ハ西ハ膽振國山越郡ニ連リ南ハ渡島國亀田郡ニ接シ東北海ニ面シ沿海三十四五里ニ亘リ郡中山岳主壘村落ハ沿海ノ外絶テ無之 就中同郡椴法華村ト尾札部村トノ間懸崖絶壁海ニ臨ミ陸路不通 同村ヨリ東南尻岸内戸井小安ノ三村ハ曲折シテ亀田郡ノ東端ニ接續スルヲ以テ該村ヨリ凾館其他ヘ往來スル皆此路ニ寄ラザルヲ得ズ 前四ケ村ノ人民區務所ノ往復等不便ヲ極メ頗ル困苦ノ事情モ有之 地形ニオイテモ茅部郡ニ屬スルハ不都合ニ付前四ケ村ヲ割キ亀田郡ニ編入候様仕度御布告案相添此段相伺候也。
 明治十一年三月二十三日
 太政大臣三条實美殿            開拓長官 黒田清隆
 
<郡組替え伺いの回答>
  明治十一年ヨリ十三年ニ至ル
  郡村組替一件書類
 凾第弐百八拾五号
  東京書記官                  凾館書記官
 渡嶋茅部小安村外三ケ村ヲ割キ亀田郡へ組入ノ義 長官殿ヘノ伺書添第二百二十一号御照會ノ趣致了承候 右ハ組替候 義實際可候得共先般地方官會議ニ於テ大小區ノ名稱ヲ廃シ郡町村ノ旧稱ニ複シ候事ニ決議相成 右發行ノ上ハ當管内ニ於テモ追テ更生可致筈ニ付其節一時ニ組替候ヘバ上申布達等ノ手數モ相省ケ 其迄ノ間從前ノ通据置候迚實際格別差支モ有之間敷哉ニ被相考候ニ付 伺書留置一應及御協議候条實際差支モ無之候バ、追テ更生ノ節一時ニ組替候様致度此段申進候也。
 (明治)十一年五月廿四日
 
 東京書記官から函館書記官に対する回答は、「茅部小安村外3ケ村の亀田郡組入れの件に付いては、既に、地方官会議で大小区画制を廃止し郡区町村制に戻すことに決定しているので、その実施時に同時に行えば事務上の手間も省けるし、その間格別支障はないと考えるので、それまでの間は従来通りとしたいが、この事について一応協議してほしい。差支えなければこのように行いたい」という内容であり、函館側の同意を求めている。これに対して、函館書記官からは、同年5月31日付で東京書記官の回答案に従う旨の返答をしている。そして、1年2か月後の明治12年7月23日「郡区編制法」により、大小区画制は廃止され、新たに郡区役所・戸長役場が設置されることになったが、尻岸内村・小安村・戸井村・椴法華村の4村が亀田郡に編入されたのは、この年ではなく、それより遅れること、2年後の明治14年7月29日のことであった。以下、その布達である。
 
 函館支庁布達 第四十八号
 当庁管下渡島国各郡村ノ内左ノ通分割組替候条此旨布達候事
  明治十四年七月二十九日
 函館支庁開拓権少書記官 有竹 裕
 渡島茅部小安村、戸井村、尻岸内村、椴法華
 右四ケ村 渡島国亀田郡へ編入
 
 ただ、小安・戸井・尻岸内椴法華の4村は茅部郡に据え置かれたが、行政事務については「郡区町村制」施行後、先に記した明治11年5月24日の凾第285号どおり、直ちに、亀田村に設置された「亀田・上磯郡役所」の所管となり不便さは一応解消された。
 なお、亀田・上磯の郡役所は、このように、発足当時茅部郡の4村をも所管したことから、明治14年7月29日、4村が亀田郡へ編入するまで、「亀田・上磯・茅部郡役所」(茅部・山越郡役所は別に森村に設置)という名称で呼ばれた。