[郡区町村制と戸長役場]

424 ~ 428 / 1483ページ
郡区町村編制法の制定
 明治5年の戸籍編成法に伴う大小区画制(渡島国4郡の実施は明治6年5月)は、明治9年9月、全道大小区画制に改定されたが、その、目的もよく理解されずに、体系的な機構としても機能せず、むしろ旧来の村・集落の自治と不整合な状況を生じ、僅か3年4か月余りで廃止されることになる。(なお、この事について、政府は、郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則、いわゆる地方制度三新法の施行理由として、大小区制を率直に反省し、その施行順序をも具体的に示している。詳細については資料編「郡区町村編制法・三新法」に記載する)そして、明治11年7月22日、政府は、太政官布告により地方制度三新法『郡区町村編制法』「府県会規則」「地方税規則」を制定する。
 開拓使も、この法に準じて、翌年の明治12年7月23日、次のように布達した。
 
 乙第四号
 明治十一年七月第十七号布告郡区編制法ニ拠リ当使管内従前ノ大小区相廃止更ニ郡区町村別冊ノ通リ編制候条此旨布達候事。
 明治十二年七月二十三日            開拓長官 黒田清隆
 
 布達の通り、開拓使は、全道大小区画を廃止し「郡区町村制」を実施する。そして、次布達の通り、行政事務はこれまでの区務所に代わり、新たに設置する「郡区役所」で行うこととなる。
 
 第九十四号
 今般郡区役所更ニ設置候ニ付テハ従前区務所ニテ取扱候事務請渡之儀別紙心得書ニ照準取計可申此旨相達候事。
 明治十二年十月二十一日
 
 これにより、北海道は、開拓使札幌本庁と函館支庁・根室支庁の管下、2区(札幌区・函館区)、88郡、826町村が設置された。さらに、2区役所(札幌・函館)、19郡役所、136戸長役場が翌13年1月、開庁となる。
 
郡役所の設置と郡長の任命
 函館支庁管下の郡区役所については、明治12年7月、函館区役所が札幌と共に、渡島4郡には、亀田と上磯郡で1つの郡役所「亀田、上磯、茅部郡役所」を亀田村に、茅部と山越郡で1つの郡役所「茅部、山越郡役所」を森村に設置、両所共に明治13年1月開庁される。さらに、津軽・福島郡役所(2郡)、桧山・爾志郡役所(2郡)、久遠郡役所(4郡)、寿都郡役所(4郡)を設置する。
 亀田と上磯2郡の役所名が『亀田、上磯、茅部郡役所』となったのは、先にも述べたが、亀田郡編入を陳情していた茅部郡の尻岸内村・小安村・戸井村・椴法華村の4か村が、郡はそのまま、亀田上磯郡役所の所轄となったからである。明治14年7月、茅部郡4か村は亀田郡へ編入され、役所名も「亀田、上磯郡役所」となる。
 この、亀田、上磯、茅部郡役所の初代郡長に任じられたのが広田千秋である。広田は七重勧業試験場の勤務経験があり、行政官であり郡下の実態を掌握していた人物と思われる。
 
 <歴代の亀田、上磯郡役所の郡長>
 初代 広田千秋 明治13年から明治17年まで
         (明治14年7月まで亀田・上磯・茅部郡役所の名称)
 2代 片岡 新  明治18年から明治20年まで
         (亀田・上磯郡役所)
 3代 森 源三  明治21年から明治23年まで
         (明治21年より亀田外3郡役所)
 4代 木村広凱  明治23年から明治30年まで
         (明治30年11月、郡役所廃止・18支庁となる)
 なお、当時の役所の状況を推察するひとつの資料として、郡役所職員(明治14年6月30日現在)と、開拓使函館支庁職員(明治13年6月30日現在)について記載する。
 
 <亀田、上磯、茅部郡役所の職員>(明治14年6月30日現在)
 郡 長  月俸50円     広田千秋  長崎県士族
 郡書記  官等12等22円   坂本信近  開拓使士族
  〃     13等20円   山崎弓雄  岐阜県士族
  〃      〃  〃  野村勝蔵  青森県平民
  〃      〃  〃  伊藤深蔵  岩手県平民
  〃      〃  〃  素木真龍  福岡県平民
  〃      〃  〃  鈴木重光  山形県士族
 
 <開拓使函館支庁職員>(明治13年6月30日現在)
 大書記官    従五位   時任為基  鹿児島県士族
 小書記官    従六位   柳田友郷  鹿児島県士族
 権少書記官   正七位   有竹 裕  岐阜県士族
 準奏任官(御用掛)
 医 師     月俸150円  深瀬鴻堂  開拓使平民
 
 ここに記した通り、任命されている職員・上級役人は、士族(武家出身)階級、あるいは、官位を有する人達である。これらの人達が職能を備えていることは勿論であろうが、それ以上に、階級、官位−いわゆる高い身分により行政職を権威あるものとする、政府のねらい(国家権力を象徴する職としての)があったと思われる。
 
 <郡長の職務>
 三新法『郡区町村編制法』の郡は、行政区画として置かれたもので、郡役所は開拓使の下部行政機関であり、郡長の職務は開拓使長官の下にあって、法律や命令を郡下に施行し、郡内の事務を統一管理することにあった。以下、郡長の職務について項目ごとに記す。
 
 地方の事務郡区長ニ於テ処分シテ後本支庁長ニ報告スル得ルモノ左ノ件々トス。
第一  徴税并地方税徴収及不納者処分ノ事。但海産税ハ此限ニ非ズ。
第二  徴兵取調ノ事。
第三  身代限財産取扱ノ事。
第四  逃亡死亡絶ノ財産処分ノ事。
第五  職遊猟願威銃願ノ事。
第六  印紙罫紙売捌願ノ事。
第七  小学校資金ノ事。
第八  成規アル戸籍上処分ノ事。
第九  成規ニヨリ社寺及ビ教導職取扱ノ事。
第十  棄子迷子処分ノ事。
第十一 旅人逓送願及発病行倒等処分ノ事。
第十二 道路掃除方法ノ事。
第十三 道路修繕等ニヨリ人馬ノ往来ヲ停止スル事。
第十四 衛生ニ関スル事。
第十五 郡費ヲ予算スル事。
第十六 郡書記以下帰省養病願ノ事。
第十七 地方税ニ関スル諸営業願ノ事。
第十八 郡務ニ関シ他郡役所等へ移文ノ事。
右之外支庁長官ヨリ特ニ委任スル条件(注…46条あり)
 <郡役所の業務>については、「戸籍科」「出納科」「庶務科」「租税科」の4科に分かれ業務を行っていた。
 
 <郡役所の諸費>
 明治17年度(17年7月~18年6月)の亀田、上磯郡役所の諸費は次の通りである。
 
一金六、三二三円  郡役所諸費
 < 内 訳 >
二、二九二円(郡書記俸給) 九六〇円(傭員俸給)
一、〇四六円(管内旅費)   七〇円(勉励賜金)
  二一六円(傭給)    二五九円(諸手当)   五円(諸手数料)
  二三五円(備品)    七〇九円(消耗品)  四六円(印刷費)
  一五〇円(郵便費)    一二円(電信費) 一四四円(運搬費)
   七九円(賄費)    一〇〇円(営繕費)
 
一金五、九〇七円  亀田・上磯郡下戸長役場諸費
 < 内 訳 >
一、八六〇円(戸長俸給) 一、三八八円(傭員俸給)
  二〇四円(管内旅費)    八〇円(勉励賜金) 八七六円(傭給)
   八九円(諸手当)    三六八円(備品)   七五〇円(消耗品)
   八〇円(郵便費)      三円(電信費)   九一円(運搬費)
   七七円(賄費)      四一円(雑費)
 
 明治13年1月開庁された渡島4郡の郡役所、亀田、上磯郡役所と茅部、山越郡役所は、明治21年の機構改革で、合併され「亀田外三郡役所」となり「七飯村」に置かれ、明治30年11月の郡役所廃止まで4郡の行政事務を行なう。なお、郡役所の事務は廃止と同時に七飯村に開設した「亀田支庁」に引き継がれ、明治32年10月1日(施行)には「函館支庁」と改称され、役所所在地は函館に移転される。
 
戸長役場の開設
 明治12年7月23日の開拓使長官黒田清隆の布達により、町村に新たに戸長役場が設置され、政府・開拓使等の上部機関の行政指導に従い、戸長を中心に村政を執行することになる。この、戸長・戸長役場は、従来(明治5年)の戸長制をすべてが廃止、戸長の人選についても、かつての名主や地元の世話役を追認するのではなく、行政職としての専門的な能力のある人材を(官が)任命した。したがって、その権限も強化し、相当の給料と身分の保障(准等外2等)をし行動能力を高めようとした。
 新たに設置した戸長役場の組織は、この戸長を最高責任者に、行政事務を補佐する村用掛・総代人、その下で役場事務を担当する若干名の筆生(雇員)が置かれた。この村用掛・総代人の任命については、村用掛・総代人の選挙の件、総代人選挙法・心得で述べたが、住民の選挙により選出し開拓使が任命する方法が採られた。村政を執行する上で、住民に信望があり地域の実情を把握した人材の登用も欠くことができないとの考慮からであろう。
 
戸長役場の組織と所在地
 郷土の戸長役場新庁舎は、字武井(豊浦)現在の木津谷富蔵氏宅の隣地に建てられ、役場組織は郡役所の4科(戸籍科・出納科・庶務科・租税科)に準じ「戸籍」「出納」「庶務」「租税」の4掛りが置かれ、戸長の下、筆生(現在の役場職員)がこれらの事務を執り行なっていた。なお、筆生の人事記事が、当時の函館新聞に載っているので、参考までに次に記す。
 
 北海朝日新聞(現北海道新聞)より 明治三十四年十一月十五日付
 ●筆生任命  根本省三氏は茅部尾札部村戸長役場筆生月俸九円に、▲谷内嘉助氏は亀田郡尻岸内村戸長役場筆生月俸九円十五銭に、昨日何れも任命せらる。
 
 筆生は、任命権者が支庁長であり、月俸も身分も保障されていたものと推察する。
 つぎに、戸長の職務内容を記す。
 
 『戸長職務概目』
 第一  布告布達ヲ町村内ニ示ス事。
 第二  地租及ビ諸税ヲ取纏メ上納スル事。
 第三  戸籍ノ事。
 第四  徴兵下調ノ事
 第五  地租建物船舶質入書入並ニ売買ニ奥書加印ノ事。
 第六  地券台帳ノ事。
 第七  迷子捨子及行旅病人変死其他事変アルトキハ警察官ニ報知の事。
 第八  天災又ハ非常ノ難ニ遭ヒ目下窮迫ノ者ヲ具状スル事。
 第九  孝子節婦其他篤行ノ者ヲ具状スル事。
 第十  町村ノ幼童就学勧誘ノ事。
 第十一 町村内ノ人民印影簿ヲ整置スル事。
 第十二 諸帳簿保存管守ノ事。
 第十三 河港道路堤防橋梁其他修繕保存スベキ物ニ就キ利害ヲ具状スル事。
 右ノ外本支庁官又ハ郡長ヨリ命令スル処ノ事務ハ規則マタハ命令ニ依テ従事スベキ事。其他町村限リ道路橋梁用悪水ノ修繕掃除等凡ソ協議費ヲ以テ支弁スル事件ヲ幹理スルハ此ニ掲クル所ノ限リニ非ズ。
 
 戸長職務は以上のように定められていたが、戸長として、自分の村、独自の問題解決に当たる事ができる権限は、条外の「其他町村限リ道路橋梁用悪水ノ修繕掃除等凡ソ協議費ヲ以テ支弁スル事件ヲ幹理スルハ此ニ掲クル所ノ限リニ非ズ」と記されていることくらいである。すなわち戸長の権限の強化といっても、村独自の業務・自治にあるのではなく、国・開拓使の命令に基づく委任業務が主であった。言い換えれば、戸長は中央集権化の最前線の職務を担っていたといえよう。
 
歴代戸長
 郷土尻岸内村の歴代戸長については、当時の拠るべき資料に乏しく判然としないが、尻岸内町史・関係町村史の記述と町所有の書類の精査、併せて当時の函館新聞の記事等を参考に補遺し記すこととする。
 
     (氏   名)     (任 用 期 間)
 初代   吉 岡 正 己  明治十二年十二月~十五年一月
       明治十二年十二月二十六日、元村用掛 村岡清九郎より事務引継ぐ
 二代   阿 部   富  明治十五年一月~十七年一月
 三代   井 上 幸太郎  明治十七年一月~十七年五月
 四代   武 石 弟 力  明治十七年五月~一九年十二月
 五代   小町谷 虎之助  明治一九年十二月~二〇年七月
 六代   小田島 恒 安  明治二〇年七月~二三年二月
       椴法華村戸長兼務
 七代   館 岡   某  不詳
       北海道庁警部補兼任
 八代   鈴 木 良 助  明治二五年~
 九代   蒲 原 利 和  明治三〇年四月~三十四年四月
       戸井村戸長兼任
 十代   浅 尾 恒 良  明治三十四年四月~三十四年六月
       戸井村戸長兼任
 十一代  太 田 留 治  明治三十四年六月~三五年三月
       二級町村制施行後、初代村長に就任
 
 これらの戸長はいずれも地元出身者ではなく、いわゆる官より任命されたバリバリの行政官であったと思われる。資料は殆ど見当たらないが、新聞記事など断片的な資料から戸長の役職像なるものを想定してみる。
 初代、吉岡正己は岩手県士族とある。前記、開拓使・郡役所の職員には士族が多いように、戸長もまた、士族が多かったのではないか。6代目小田島恒安は戸長兼北海道庁警部補兼務の辞令があり、当時、旧藩士の警察官が多かったことから、やはり士族出身と思われる。明治20年ころの役人の叙任及び辞令には、郡書記・戸長の警察官兼務が相当数見られる。官職については、5代小町谷虎之助は准判任官10等(月俸10円)、6代小田島恒安は准判任官9等(月俸12円給与)となっている。小田島は警部補兼務なので等級が上なのか。また、4代目武石弟力について、次のような新聞記事が見られる「●賞金 亀田郡尻岸内村戸長武石第力(ママ)氏の職務勉勵尠(べんれいすく)なからざるに付き其賞として一昨日金拾圓下(くだ)し賜はりたり・明治19年12月10日付」、当時も賞与制度があったのであろう。なお、武石弟力の北海道庁へ提出書類「控」(筆生鵜飼信敬の書写と思われる)が現存するが、細目にわたり非常に丁寧に記述されている。このような事などが評価されたのではないかと推測する。