[尻岸内の運上屋・駅逓]

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 尻岸内運上屋についての記録は、天明6年(1786年)の『蝦夷拾遺』に「シリキシナイ、ヲサツヘにそれぞれ運上屋一戸あり」とあるのが初見である。
 その3年後の、寛政元年(1789年)菅江真澄の紀行文『ひろめがり』に、この年恵山に登り帰途、銭亀沢村に遊んだ記録(断片的なものを綴り併せて読み取った)であるが、「七月十日恵山に登り、下山して根田内にまり、翌十一日、根田内を出発、古武井を通り『尻岸内運上屋に一』、十二日尻岸内を出発、日浦と原木の峠を越えた」とある。
 また、前出、寛政9年(1797年)の『蝦夷巡覧筆記』(別名蝦夷地東西地理)は、松前藩の高橋壮四郎等が記した松前地と東・西蝦夷地の巡回調査報告書で、そのなかに、「小安村・トイ・シリキシナヱ・オサッペ(それぞれに)運上屋有リ」と記されている。
 前期幕領期に入った寛政12年(1800年)の『アッケシ出張日記』には、「小薩部御用宿 宿支配人源次郎、椴法華番人武左衛門、根田内番人弥右衛門、尻消(ママ)内御用宿 宿支配人官兵衛』の記事がみられる。
 この記録から、尻岸内の駅逓制度は1700年代後半から、初期のものとして存在してきたが、前期幕領期に入ると、名称も(官営の)御用宿となり、また(官職として)支配人も配置され、尾札部への中継地の根田内には番屋・番人を置くなど、駅逓制度が機能し始めたことが窺える。
 これらの施設は勿論、駅逓として特別に設置されたものではなく、運上屋時代からのものであったが、通行人・物資の流通の増加に伴い制度も徹底し、宿はもとより荷物の輸送・書状の継送など、便利になってきたものと思われる。