[後松前藩時代の道]

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 文政4年(1821年)12月松前藩は復領を果たし、翌5年、陸奥梁川から14代藩主松前章広が福山城(松前)に帰還、これより以降の32年間、再び松前藩による蝦夷地の統治が行われることになった。
 しかし、その理由は幕府が松前藩の統治力を期待したからではない。
 まずは、ゴロウニン事件(文化8~10年・1811~13)(注1)が解決して、幕府直轄の最も大きな理由であった北海がとりあえず平穏な状態に戻ったこと、ロシアの南下政策も対ナポレオン戦争を契機に、極東戦略が後退し北方防備の意義が薄れたことがあげられよう。併せて多年にわたる警備が幕府の防衛費を超過し、警備・出兵を命じられていた南部・津軽藩も莫大な出費に苦慮したこと。南部藩は表高10万石を20万石に格上げされたが加封があったわけではなく、石高に比例して幕府に対する軍役は倍となり、津軽藩についても事情は同じであった。したがって、他藩の出兵についても困難な状況にあった。
 一方、防衛体制と密接に関連していた(幕府の海産物)直捌制が、松前藩時代の場所請負人の強烈な抵抗をうけ、幕府財政にとってこの直轄への経済依存度が思惑通りにならなかったことがあげられよう。また復領を目指した松前藩の老中水野忠成への贈賄も、功を奏したといわれている。
 
 (註1)ゴロウニン事件
 文化8年(1811年)ロシアの艦船ディアナ号の艦長・海軍少佐ゴロウニンが、クリール諸島(南千島)・韃靼(だったん)海峡(間宮海峡)沿岸の測量中、上陸した国後島で、部下6人とともに南部藩の警備隊に捕らえられ、箱館から松前に送られ幽囚満2か年の後、釈放された事件。
 ゴロウニンらを捕らえたのは、ロシアの元将校フボストフらの北辺襲撃(文化3~4年に繰り返された、番屋や会所などに対する私的な襲撃)に対する報復であった。ディアナ号の副長リコルドは、艦長ゴロウニンらを救出するため、本国に帰り日本の漂流民を連れて引き返し、幕府にゴロウニンらとの交換を申し出るが黙殺され、その上、彼らは皆殺しにあったと伝え聞く。そのことを確かめるため副長リコルドは、エトロフ場所から漁獲物を積み箱館に帰港中の観世丸を襲い、相当の人物と見た船主の高田屋嘉兵衛らを捕らえる。
 船中でリコルドは嘉兵衛から、ゴロウニンらの無事を聞き、また、その律義な人柄に傾倒し、この事件の調停者として適任であることを確信し、カムチャツカの州都ペドロパブロフスクに同行する。ことの成り行きを理解した嘉兵衛と思慮深いリコルドの努力が実り、ロシア側はフボストフらの暴行を陳謝、一時険悪な事態となった日露関係が緩和され、文化10年(1813年)9月28日、ゴロウニンらは嘉兵衛らとの交換条件で無事釈放され、事件は平和裡に解決する。
 ゴロウニンが、この2か年の幽囚についてまとめた手記は『日本幽囚記』と題して1816年刊行・翻訳され、限られた状況下での記録ながら、叙述に誇張や粉飾がなく知識人からも評価され、日露はもとより全ヨーロッパにとって極めて信頼できる記録として多くの人に読まれ、日本が再認識された。併せて、日本人・高田屋嘉兵衛に対して高い評価を受けた。なお、日本では杉田立卿(りっけい)・青地林宗(りんそう)により訳され『遭厄日本紀事』として、文政8年(1825年)刊行された。