大正5年10月5日付函館毎日新聞に「船舶遭難原因・津軽海峡に於ける」と題した記事が載っている。これは津軽海峡で船舶の遭難が多発していることから、調査等をもとにその原因を推察し、日浦岬灯台の増設などに触れる社説なので要点を記すこととする。
最近本道沿岸で汽船遭難が頻出している。「逓信局はその原因調査を命じた」と既報したが、これに対する函館海事部の調査報告はつぎの通りである。
①遭難船 津軽海峡南側、大間崎弁天島座礁した英船「ラホードホール」竹島丸は、海図及び水路誌に明記している海峡潮流の変化に注意を払わなかったのが原因と認められる。一方、北側の尻岸内海岸に座礁した船は二隻で、一は軍艦「笠置」で救助全く絶望に終わり、他方、汽船「神光丸」は自力離礁している。同、尻岸内村の磯谷沿岸では「筑後丸」が底触したが危うく難を逃れている。又、青森・室蘭間定期船「京城丸」の航海延滞(遅れ欠航)がある。これらの理由は、従来告示されている海峡の海流が、本年度は甚だしく変化したためのものと推測される。
②海流の変化 本年は函館・青森定期航海汽船の航海延滞が少なかったが、その理由は六・七・八月に発生する濃霧が少なかったことによるものである。これは津軽海峡を通る黒潮支流(津軽暖流)が例年より量を増したため、本道東岸より南下し津軽海峡に潜入する寒流(千島海流)が暖流に阻まれて少なく、霧の発生源である暖流と寒流の接触点(潮目)が汐首岬以東となったため恵山岬の方が濃霧に見舞われることが多かった。これは恵山岬灯台の海水温度が例年より三度乃至五度高いこと霧信号発信の延べ時間数が例年より二〇%以上長いことからも理解される。
③海峡の海流変化に起因する海難 通常、津軽海峡を太平洋側から西方(松前方面)へ航行する場合、海図・水路誌により、汐首岬より流走する偏南性海流(反流)のため、船舶は左方に圧流されることを計算し針路を取らなければならない。しかし、前述の如く本年は黒潮支流(津軽暖流)が増量の為め、海流に変化を来し予想外の海難が発生したと認められる。
④航路標識の不備 津軽海峡東口より航行する船舶の遭難の内、乗上・底觸(座礁)について、過去三ケ年間函館地方海員審判所理事官の取扱い事件統計によれば、日浦岬・恵山岬間が最も多いという。この沿岸は複雑な地形で岩礁暗礁が多く、加えて海流・潮流の変化が激しく、汐首・恵山両灯台はあるがこの一帯には視界外の海域も多く、視界内の沖合を航行すれば強烈な東流に逆航しなければならず、自然に沿岸に接近し潮流の変化、降雪時の展望不十分、又、沿岸航路船は羅針盤や磁差測定の不十分なことも相俟って事故に遭遇する。
○このような理由から、津軽海峡に更に二箇所の航路標識を増設する必要ありと考える。第一は日浦岬、第二は陸奥国大間崎の北端弁天島である。
⑤結論 以上を総合し、本年度、津軽海峡の濃霧期における海難は、衝突接触を除き、第一は予想外の海流とこれに随伴する潮流の変化に起因するもの、第二は航路標識の不備、第三は船舶の操縦者の潮流に対する熟練・研究不足、運航方法に欠点あり。
因みに、ここに提言されている灯台の設置、大間崎灯台の初灯火はこの報道の5年後、大正10年11月1日のことであるが、記事に述べられてもいる、最も海難事故の多かった日浦岬灯台の設置は、35年後の昭和26年3月のことであり、戦後の装備の悪い漁船による無理な操業で多くの海難・死者を出し社会問題化してからのことである。
直江津丸衝突沈没す「恵山沖に於て一名行衛不明」 大正6年(1917)7月8日『函館毎日新聞』
函館区内川氏の所有船「直江津丸」と北日本会社所有・青蘭連絡船「京城丸」(一、〇三五噸)が恵山沖で衝突、直江津丸は船体切断し忽ちの間に沈没する。
幸運丸の沈没「尻岸内沖にて」 大正6年(1917)12月10日『函館毎日新聞』
函館笹谷回漕店所有発動汽船「幸運丸」尻岸内メノコナイ沖で座礁沈没する
多喜丸遭難す「恵山沖合にて」 大正7年(1918)1月22日『函館毎日新聞』
神戸大正汽船会社所有「多喜丸」(一、三〇〇噸)恵山沖でシャフト切断・漂流
沖の浦丸と渡嶋丸衝突 大正7年(1918)6月4日『函館毎日新聞』
恵山沖北西十二里で、函館弁天町濱根岸太郎所有発動汽船「沖の浦丸」(七四噸)と同、谷地頭町西村初太郎所有「渡嶋丸」(六九噸)が衝突、渡嶋丸は沈没す。
弥彦丸、座礁沈没 大正9年(1920)5月4日『函館毎日新聞』
村井汽船会社所、汽船有弥彦丸(三、二〇〇噸)石炭を満載し恵山沖を航海中、濃霧の為め進路を誤り、尻岸内海岸にて座礁、沈没す。
最祥丸座礁す 大正9年(1920)6月12日 『函館毎日新聞』
宮城県石巻柴山商会所有「最祥丸」尻岸内村武井泊の沖合航行中濃霧の為め座礁
新川丸遭難「恵山沖でシャフトを折り、遂に行方不明となる」 大正12年(1923)8月5日『函館毎日新聞』
富山県滑川町綱谷多三郎所有、汽船「新川丸」(七四一噸)根室より木材を積み恵山沖航行中シャフト折損航行不能に陥る。乗組員二十二名中救助を求めてボートを出した一等運転士以下五名は、漂流中第二忠盛丸に救助、ボートも古武井海岸に漕ぎ着くが、新川丸の消息は広範囲の捜索にもかかわらず不明である。
正福丸座礁 大正12年(1923)9月22日『函館毎日新聞』
松前郡福島村加藤丑之助所有、発動汽船「正福丸」(一七噸)戸井館鼻沖で座礁す。
烏賊釣船遭難「三名溺死」 大正12年(1923)10月13日『函館毎日新聞』
尻岸内沖合に出漁中の烏賊釣船転覆・破損数隻、全村あげて救助したが三名溺死
必勝丸沈没「尻岸内沖で」 大正12年(1923)12月20日『函館毎日新聞』
大阪市藤田所有、汽船「必勝丸」(三一〇噸)吹雪により座礁・船体破壊し沈没。
古武井で漁船二隻難破 大正13年(1924)11月22日『函館毎日新聞』
古武井村の漁船二隻暴風雨で難破、数名溺死したが目下屍体不明。
福徳丸と尻矢丸、座礁す「尻岸内にて 両船とも死傷なし」 大正14年(1925)8月28日『函館毎日新聞』
石川県の発動汽船「福徳丸」(十九人乗組)は東北の強風に煽られ尻岸内村日浦海岸に乗上げ破損。下北大畑の発動汽船「尻矢丸」馬場軍太郎船主外、十人乗組は強風の為め尻岸内トドリ岬に乗上げるが、地元中里回漕店の救助で死傷者なし。
又も発動汽船の遭難 大正14年(1925)8月28日『函館毎日新聞』
山形県の発動汽船(船名不詳)は尻岸内沿岸に出漁中、濃霧で古武井海岸に乗上大破す。
恵山沖に不思議な魔の場所「東国丸機関長突然姿を消す 恵山沖を航海中に〝自殺か過失か〟」 大正15年(1926)5月8日『函館毎日新聞』
金森商船「東国丸」(二七〇噸)日高紋別から函館に向かう途中、七日朝恵山沖に差掛かった頃、突然機関長穂刈久似太氏の姿が消える。船内くまなく海上三十分余り捜索発見されず。不審な点も自殺も思い当たる節もなく謎の失踪である。
尻岸内で烏賊釣り機船遭難 昭和7年(1932)10月17日『函館毎日新聞』
函館市小舟町坂東才二郎所有発動汽船「八十州丸」は烏賊釣り中突風にあい尻岸内の岬で遭難、船体は大破したが全員無事。出漁中の機船十数隻の安否未だ不明。
発動機船の横腹に大穴 昭和7年(1932)11月21日『函館毎日新聞』
石川県珠洲の烏賊釣り発動機船「恵比須丸」(六噸)は、恵山岬沖合で出漁中の、「第二茂寿丸」(一二噸)の左舷船腹に衝突し大穴を開ける。原因調査中。
機船と川崎船尻岸内沖で衝突 昭和8年(1933)10月29日『函館毎日新聞』
函館市梅澤清松所有の発動機船「室蘭丸」(九噸)は尻岸内沖合で尻岸内村中浜後藤市造所有の川崎船「海運丸」と衝突、海運丸は大破したが人命には異状なし。
八幡丸、尻岸内に避難 昭和8年(1933)11月9日『函館毎日新聞』
烏賊釣り中、尻矢岬沖で遭難した「八幡丸」(一八噸)は尻岸内村に漂流し無事。
尻岸内で漁船転覆一名溺死 昭和8年(1933)12月5日『函館毎日新聞』
尻岸内村字女那川太田漁場の漁夫、佐藤一雄(二四)外三名乗込、四日午前四時出漁中、西の烈風で漁船転覆、外の三名は助かったが佐藤一雄は溺死か遺体不明。
烏賊釣り漁夫、機船から墜落 昭和9年(1934)9月19日『函館毎日新聞』
古武井浜中の沖合三里で、烏賊釣り発動機船船主佐藤房太郎、尻岸内村字豊浦、「第三繁丸」乗込漁夫十五名内、山田宇一郎は発動機振動の為、海中に転落溺死。
切揚の運海丸尻岸内沖で座礁 昭和11年(1936)8月11日『函館毎日新聞』
日魯漁業会社北洋切揚げ船「第七運海丸」(二、二〇〇噸)函館に向け航行中、尻岸内沖合で霧のため座礁浸水、日本サルベージ「吾妻丸」救助に急航する。
鮮友丸座礁 尻岸内沖で 昭和12年(1937)8月24日『函館毎日新聞』
大阪市岡田組所有「鮮友丸」室蘭で鉄材積込み大阪へ航行中、尻岸内村字大澗沖合で座礁、人命に異状なく救助のサルベージ船手配中。
第一能州丸(三好商会)遭難 昭和12年(1937)9月13日『函館毎日新聞』
「昨夕刻恵山沖で〝乗組員六名行方不明〟」 函館市仲浜町三好商会所属の汽船「第一能州丸」は日高国幌泉郡笛舞村から昆布を積んで函館に向かい航行中恵山岬北方二〇浬で大時化となり遭難、船体危険瀕す。付近を航行中の山本汽船所属汽船宏山丸が発見、乗組員5名を辛うじて救助したが、残る六名は今なお行方不明。
続報、翌十四日「第一能州丸」海難現場に三好商会は「幸洋丸」を急派、遭難者捜索。