一、明治以前

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○寛文十年(一六七〇) 『津軽一統志
  石崎(十軒)やちまき(あき家十三軒)、たか屋敷(あき家六軒)、おやす(十五軒)、塩くび崎(六軒)、にともない (五軒)、にともない(・・・・・)は鎌歌であろう。
 
○宝暦九年(一七五九)『松前蝦夷聞書』
  箱館六十五、六、いくら前十二、三戸、銭亀約二十戸とあり、おやす、塩首、とい、はらきの地名を書いているが人口は書いていない。
 
○天明六年(一七八六)『蝦夷拾遺
  石崎村  六十戸足らず  三百余人
  小安村  四十戸足らず  百六十余人
  世田良村  十戸足らず  二十人足らず
    蝦夷地
  トイ 運上屋一戸、世田良村と境を接し、このうち海岸里数、三里
 
○寛政九年(一七九七)『松前地誌』
  小安運上屋あり、一月から五月までノリ、八月まで昆布。冬鰊。水よし。
  戸井、運上屋あり、フノリ、昆布。水よし。
   と書かれているが、戸口については書いていない。
 
○天保九年(一八三八)『松前国中記』
  「箱館、寺社町家およそ三、四百軒」とあり、戸井の地名はオヤス、ウンカ川、カルヤラヤス、シオクビ、ユムキナイ、メッタマチ、トイノカワシリ、シスン、オカベトマリ、トイ、ムイノトマリ、ハラキ、カネカシタ」などの地名が書かれているが、戸口のことは全然書いていない。
 
○安政三年(一八五六)『蝦夷行程記』
  「八木巻十戸余、小安六・七戸、汐首十戸余」と書きあとは「瀬田内、蓬田、戸井、釜ウタ、原木」と地名だけより書いていないので、瀬田来から原木までは特に書く程の家数がなかったものであろう。
 
 以上の古書、古記録に記載されている戸口は、和人の入口で、蝦夷の戸口は書いていない。戸井地域には明治時代まで蝦夷が居住していたので、時代の古い程蝦夷の戸口が多かったことは推定されるが、記録がないので知ることが出来ない。
 明治以前の函館、渡島、檜山即ち道南の戸口を古書、古記録によって調べて見ると次のようになる。

[道南の戸口]

 以上が古文献に記載されている戸口を集計した一覧表であるが、殆んどが松前藩や幕府の指示や命令で、村々の戸口を調べたものの集計であるので、正確なものでなかったことが想像される。和人の異動の激しかった時代であり、調査の方法も、松前藩や幕府の役人が一ヶ月も二ヶ月も足で歩いて調べるとか、村々の役人に報告させたりしたものなので、正確を期せられなかったことは当然である。然し全体として戸数の二十軒、三十軒の増減や不正確を考え、人口の五十人、百人の増減を見ても、大差のない数字と見ることができる。この表によって、道南地方の明治以前の戸口の増減の歴史を知ることができるし、戸井の戸口の推移を考える上にも一つの資料になるだろう。
 戸井の戸口は、寛文十年に『津軽一統志』に書かれた時代と、それより二〇〇年後の安政年間の戸口とを、比較して見ると、常識的に考えるように漸増はしていない。
 これは僻地ということと、蝦夷地という人為的な区分(松前藩の施政方針)によって、和人の定住が制約された結果であろう。