五、高田屋嘉兵衛と汐首岬

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 寛政年間、豪商高田屋嘉兵衛が汐首岬の高台に建てられている汐首神社に、御影石(みかげいし)(花崗(かこう)岩)の鳥居を寄進したといういい伝えがあり、その鳥居の一部だと伝えられている残骸(ざんがい)が今なお残っている。
 鳥居の中央に掲げられたものと思われる御影石の額が観音堂に保存されている。この額は「観世音」と三字刻まれたもので、縦二尺、横一尺二寸五分、長方形の立派な額である。又神社の附近の人家の前や畠の縁に、笠木石の破片二箇、柱の破片一箇が残っている。
 観音堂は最初、汐首神社の境内に建てられ、その後三度場所が変って現在の場所に建てられたという。高田屋嘉兵衛が汐首神社に鳥居を寄進したのは、観音堂がまだ汐首神社の境内にあった頃であろう。
 この鳥居が、どの場所に建てられたものか、いつ取こわされたものか記録もなくその痕跡もなく、古老のいい伝えもないので不明である。

高田屋嘉兵衛の肖像

 高田屋嘉兵衛は、寛政年間にエトロフ、根室、幌泉の航路を開き、漁業や貿易のために、箱館とこれらの場所を船で往復し、戸井の沿岸を通過した。恵山沖で鱈漁を始めた頃は特に頻繁(ひんぱん)と汐首沖を通ったのである。
 高田屋嘉兵衛が鳥居を寄進したといういい伝えが事実であれば、嘉兵衛がエトロフ島に初めて航路を開いた寛政十一年(一七九九)六月か、手船辰悦丸(一五〇〇石積)に乗じて、エトロフ島に航し、漁場十七ケ所を開いたという寛政十二年(一八〇〇)の頃と思われる。伝説は寛政年間ということなので、このころより考えられない。
 高田屋の船が、箱館の港を出帆して、第一にさしかかる難所は、激しい潮流がうず巻き、海の墓場といわれている汐首岬であった。この岬に海上安全を護るように、汐首神社が建っている。この神社の境内に観音様を祀る観音堂もあることを知った高田屋嘉兵衛は、はるかな根室やエトロフまでの航海の安全を、汐首岬の神仏に祈ったということは想像に難くない。嘉兵衛は汐首神社に鳥居を寄進することを発願し、郷里の淡路島か、兵庫あたりに産する御影石で、組立てるばかりに石工に造らせたものを、辰悦丸に積んで来て、汐首の山背泊に陸揚げして建てたものであろう。鳥居の柱には「寛政○○年、○月、高田屋嘉兵衛(或は高田屋般中)建之」という文字が刻まれていたので「寛政年間、高田屋嘉兵衛の寄進した」ということがいい伝えられたものと思う。
 嘉兵衛は観音様の信仰者であったことは、古い記録の各所に出ている。文化六年(一八〇九)一月、恵山のサイの河原に「高田屋船中」として建立した石仏は、十一面観世音像である。この仏像は、高田屋の船が恵山岬で遭難した時に建てられたものと伝えられている。台石だけが御影石で、仏像は輝石安山石であるが、どういうわけか、仏像は恵山岬即ち津軽海峡の方を向いておらず、幌泉、根室、エトロフの方を向いている。
 汐首神社に鳥居を奉納した時に、高田屋はここに円空上人鉈造りの観音像のあることを知っていたものと思う。高田屋は汐首岬を通る時に、日和が悪ければ山背泊沖に投錨して、潮待ち風待ちをしたことが想像される。又日和がよければ、御影石の白い鳥居を目じるしにして、汐首岬の神仏に祈りを捧げ、往路の海上安全を祈願し、エトロフ、幌泉などからの復路は、岬の神仏に感謝の祈りを捧げたものであろう。
 嘉兵衛は文政元年(一八一八)弟金兵衛に事業を譲って、郷里淡路島に引退し、文政十年(一八二八)四月、五十九才で淡路島で病歿した。
 嘉兵衛の後を継いだ金兵衛は、天保二年(一八三一)に幕府から「不審なことがあるので、直ちに出頭せよ」という命令で江戸に召喚され、密貿易の疑いで取調べられた。取調べの結果、密貿易の疑いは晴れたが、嘉兵衛時代から露国船との間に、公認されない密約があるという罪で、正保四年(一八三三)所有船十二隻を没収され、江戸を中心とした十里四方追放のこと。金兵衛は生国淡路、志本領主松平阿波守の領分以外に出てはならないこと。金兵衛の養子嘉市は、船稼ぎ差し止め、所払い。並に兵庫、大阪の支店への立入りも禁止され、高田屋所有の建物、器財等は、親類一同の意見に任せて、処理すべしという誠に苛酷(かこく)な処分が申し渡されたのである。
 今考えると、このような厳しい処分をした理由が納得出来ないし、これを裁いた幕府の役人の非常識さに驚ろくものであるが、高田屋を国賊として処分したものであろう。高田屋の処分には、恩顧(おんこ)を蒙(こうむ)った人々は一大ショックを受けたものであろう。高田屋二代にわたって恩顧を受けた続豊治が、船大工をやめて、仏壇師になったということも当然である。五十年、百年たってもこわれない汐首神社の御影石の鳥居が取こわされたのは、高田屋が国賊扱いを受けて没落した時であろうと想像している。幕府か松前藩の命令で取りこわされたものであろう。
 汐首神社の鳥居は、高田屋全盛の時に建てられ、没落した時に、上からの指示命令でとりこわされたものと推定している。

高田屋嘉兵衛の寄進した鳥居の残骸

 高田屋から没収した十二隻の船は、箱館で競売に付されて、福山や箱館の豪商の手に渡り、高田屋の請負場所、幌泉は福島屋清兵衛根室場所柏屋喜兵衛、エトロフ場所は関東屋喜兵衛外二名の手に移って、高田屋嘉兵衛がその才智と度胸で築いた高田屋の大身代も一挙にして崩れ去ったのである。天災地変が人間の幸福を一挙に奪い去ることも多いが、高田屋の災難は、不当な権力が高田屋の幸福を奪い去ったのである。
 嘉兵衛が露国艦長ゴローニンの釈放を実現させた、その人間性、義侠心、勇気に感銘した露国が、高田屋の船を特別扱いにしたことが、他の豪商から幕府に密告され、弟金兵衛の時代に悲運の原因になったのである。
 金兵衛が幕府から、「全財産没収」という苛酷な処分を申し渡されたのは、嘉兵衛の死後五年目であったので、嘉兵衛は生きてこの悲しみを見なかったのである。
 箱館、下海岸の海運並びに漁業発展上、直接間接に大きな影響を与えた高田屋嘉兵衛、金兵衛二代の功績は、汐首神社に寄進した高田屋の鳥居と共に忘れられないことである。
 (七飯町大中山の富原喜久夫宅に、高田屋金兵衛椴法華で鱈漁をした時の古文書や往復した手紙が保存されている)