最上徳内(もがみとくない)が寛政二年(一七九〇)に書いた『蝦夷草紙』巻の二「産物の事」という項に、
「一、硯石
箱館村の石崎村、シロイの浜という所に一円にあり、又この山陰にヌルイ川という所にあり、江戸細工人に彫らせて予(よ)所持するものなり。日本へ運送安し」とある。
最上徳内が「シロイの浜」と書いている場所は、石崎村ではなく、釜谷と汐首の間の昔から「シロイ浜」と呼ばれているところである。又「この山陰のヌルイ川」という川は、古川尻に注いでいる潮泊川の上流で、笹積山と丸山に源を発している川である。
徳内が書いている硯石は、釜谷から原木までの海岸や川添いに露出している古生代の変成粘板岩と思われる。
この地域には千板岩質粘板岩や石灰岩質緑泥片岩が、板状節理をなして広範な区域に露出している。徳内の書いている硯石がこの岩石だとすれば、シロイ浜やヌルイ川よりも、汐首岬から瀬田来、戸井川の流域にはこの変成岩が厚大な層をなして露出しているので、徳内は汐首岬を船で越えて戸井の運上屋に来たものと思う。徳内が徒歩で汐首岬を越えたのであれば、汐首、瀬田来の変成岩を見て驚いたものと思う。
徳内が「日本への運送安し」と書いているところから察すれば「この石を江戸に輸送して硯を造らせよう」という意図があったものと思われるが、戸井に硯石があるということを村人は知らない。
最上徳内は、天明五年(一七八五)幕命によって蝦夷地検分に渡島した御普請(ごふしん)役青島俊蔵の「検地竿取」という名で青島と同行して蝦夷地を調査し、寛政二年に『蝦夷草紙』を書いたのである。青島俊蔵が飛弾屋事件で松平定信に処断されて失脚後、徳内が定信の信任を得て、寛政二年十月御普請役下役に取り立てられ、十二月には御普請役に昇進し、直ちに蝦夷地派遣の幕命を受け、翌寛政三年正月江戸を出発し、再度蝦夷地へ渡ったのである。
この時の一行は御普請役田辺安蔵、大塚唯一、御小人目付和田兵太夫、高崎助四郎、豊田源八郎等であった。
徳内は出羽国北村山郡楯岡(たておか)在の百姓高宮間兵衛の第二子として生れ、苦労力行して当時の数学者本多利明の門人となり、本多利明の推挙によって幕府の直臣となり、松平定信にその才能を認められ、御普請(ごふしん)役にまで栄進したのである。
松浦武四郎が、嘉永三年に書いた『蝦夷日誌巻の五』に「蝦夷草紙に、このあたり白い浜という所に硯石が出ると書かれているが、場所はどこか私にもわからない」と書いている。