◇大改革
・慶応三年(一八六七)十月十四日 徳川慶喜の大政奉還により江戸幕府の政治は終りをつげ、同年十二月の王政復古令により維新政府(明治政府)が成立した。
このような大変革の中で蝦夷地の人々は、慶応四年(明治改元は九月八日)をむかえたが、これまでと異なる新政府の蝦夷地に対する実支配はどのようになされるのか、この年正月、鳥羽伏見に始まった内乱は今後どのように進展するのか、そして北方ロシアは、どんな動きを見せるのだろうかなど、人々を不安にさせる出来事が多かった。
箱館奉行杉浦勝誠は、箱館市中に浮説が流行し人心が動揺していることを知り、二月二十日、治安維持に配盧し、人々は安心して家業に励むように教え諭している。
◇五箇条の御誓文、五榜の掲示
新政府は、江戸攻撃を前にした、三月十四日、公議世論の尊重、開国和親などの政治の基本方針を示した五箇条を天皇が神に誓約するという形で発表し、また一般民衆に対しては、五榜の掲示を示し、一揆やキリスト教のとりしまりなど旧幕府とあまり変わらない方針を布達していた。
◇箱館裁判所
・三月二十五日 朝廷上議所において箱館裁判所設置その他について審議
・四月 箱館裁判所を設置し仁和寺宮嘉彰親王を総督に任命
・閏四月二十四日 東京で箱館裁判所を箱館府と改称、(この後、箱館では、裁判所と箱館府が混用される。)清水谷公考を知事に任命
・閏四月二十六日 清水谷箱館に着任し、二十七日前箱館奉行杉浦兵庫頭より政務を引きつぐ
・閏四月 箱館裁判所、管轄下の住民に対し御一新の布告を発する。
・五月一日 箱館裁判所を五稜郭に開庁
・六月三日 人心の不安をやわらげるため、箱館府民生方、安堵の布告を出す。
◇箱館戦争
・八月十九日 榎本、松平、荒井等榎本軍(旧幕軍)は開陽以下八隻に二千人を分乗させ品川沖を脱出し松島湾に入港、ここで会津の戦闘に敗れた、大鳥、土方らと合流し、開陽、回天、蟠龍、長鯨、神速、大江、鳳凰の各艦船で蝦夷地に向け出航し、明治元年十月十九、二十日、森村鷲の木に上陸した。
榎本軍は箱館府宛の嘆願書を人見勝太郎に持たせて出発させる一方、箱館を攻撃する態勢を整え、大鳥圭介の率いる隊は本道を土方歳三の指揮する隊は川汲を越え箱館に入ろうと行動していた。
一方箱館府は協議の結果賊兵(榎本軍)を打ち払うことに決定し、十月二十二日夜、七重方面と大野方面より兵を出撃させ榎本軍と激戦を重ねたが、二十四日夜には、亀田村まで退却せざるを得ないような有様であった。
十月二十五日、清水谷知府事(ママ)は青森に撤退し各藩兵もそれぞれ船便をさがしてこれに従った。
榎本軍の一部は、十月二十三日砂原を通過し川汲峠を越えて箱館に向かおうとしていたが、この頃の椴法華村になんらかの影響を与えていると思われるが、現在のところこれに関する資料を得ることができなかった。
明治元年の椴法華村の村役人は、小頭、覺藏、年寄、弥三郎、百姓代、八右衛門であるが、おそらく、めまぐるしく変化する社会情勢の中で、村民の生活をどのようにして守っていくか、大変な苦労をしていたものと推察される。
・十月二十六日 榎本軍五稜郭占領
・十月末 下海岸地域、榎本軍亀田御役所の管轄下に入る
・十月から十一月にかけて榎本軍、川汲峠に監視所を設置
・十一月五日 榎本軍福山城を占領
・十二月十五日 榎本軍全島を平定、箱館に独立政府の形で政権を誕生させる。政権の指導者を決めるに当っては、新方式をとり入れ、各隊の士官以上による入れ札(投票)によって、総裁以下、副総裁、海軍奉行、陸軍奉行その他要職を決める。
その後、榎本軍は官軍側の反撃に備え、森、鷲の木、砂原、臼尻、川汲、峠下その他要地に台場や胸壁を構築した。また榎本軍の本営である五稜郭、弁天台場をとりかこむ地域にも、四稜郭、千代ガ岡、築島台場などを構築、兵器を整備し要地に各隊を配備するなどの備えも行われていた。