『新羅之記録』によれば、康正二年(一四五六)アイヌ人乙孩(オツカイ)は、当時志及利鍛冶屋村に在った鍛冶屋に靡刀(小刀(マキリ))を注文したが、完成した靡力の出来具合をめぐって言い争いとなり、鍛冶屋は、ついに乙孩を殺害してしまったと記されている。
この事を切っ掛けにしてかねて和人勢力の進出に不満を感じていたアイヌ人は一斉に蜂起し、東は鵡川から西は余市付近まで進出していた和人勢力を追い払った。
翌長禄元年(一四五七)雪どけの終った五月十四日、酋長コシャマイン(出身地不詳)の率いるアイヌ人は乱を起し勇猛果敢に戦い当時蝦夷地南部の海岸線に在った十二館のうち十館を次々と陥れた。
すなわち、志濃里館、箱館、中野館(木古内)、脇本館、穏内館(吉岡)、〓部、大館、禰保田館、原口館、比石館の諸館が破られた。これに対し和人側は、わずかに残された、下国家政の守備する下国の館(茂辺地)と蠣崎季繁の守備する花沢館(上の国)が奮戦し、辛うじて反撃に転じ、コシャマイン父子と多数のアイヌ人を殺害した。この時アイヌ人を鎮圧した武田信広は、蠣崎季繁の嗣子となり、上の国に州崎の館を構築し、次第に諸館の館主達を従えるようになり、蝦夷地の覇者となった。これが後の松前藩第一代の蠣崎信広である。