昆布漁が盛んになりはじめたのは、年代は明らかではないが、内地船が蝦夷地に交易のため来航するようになってからであり、昆布に関する一番古い記録と考えられる『庭訓往来』(元弘四年・一三三四)の記録には、蝦夷地の名産品として宇賀の昆布の名を上げている。「宇賀昆布」というのは現在の函館市銭亀町付近から産出する昆布のことであり、このころ既に蝦夷地産の昆布がはるばる京都・大阪方面にまで運ばれていたことが知られる。このように昆布の採取は函館付近を中心に古くから行われていたが、その後内地における昆布需要の増加と蝦夷地における和人勢力地域の拡大により次第に生産額は増加し、その生産地域も松前藩が成立するころには、噴火湾沿岸一帯にまで及んでいったものと考えられる。
左上すみに宇賀昆布
庭訓往来(内閣文庫蔵)現存する最古のもの
『新羅之記録』によれば、寛永十七年(一六四〇)「六月十三日、松前之東内浦之東内浦之嶽俄尓焼崩其勢滄海動揺而〓滔來百餘艘之昆布取舟之人残少所引〓而〓死畢」と記されている。これをわかり易い文章にするとおおよそ「寛永十三年(一六三六)六月十三日、松前の東内浦之嶽にわかに焼け崩れ、その勢により大海が動揺して〓(つなみ)滔(おこ)り、百余艘の昆布取舟の人は残り少なくなる程〓(つなみ)に引かれて〓(おぼ)れ死んだ」という意味である。また『松前年々記』によれば、この時和人・アイヌ人合わせて七百余人も溺死したと記されている。
この他にも『松前蝦夷記』によれば、亨保年間(一七一六-三六)のはじめごろ亀田村在志苔から駒ヶ岳附近の浜まで約二十里の間に昆布が多く産出するということが記されている。江戸時代の初期から享保年間のはじめごろまで、いわゆる下海岸・陰海岸又は六ケ場所といわれるあたりが、昆布生産の中心地であったことが知られる。その後、次第に昆布漁場は拡大されていき、『北海随筆』によれば、元文年間(一七三六-四一)には「昆布は西海路にはなく、東海路箱館の外海より蝦夷地へかけて四五十里の間昆布の場所あり」と記されているような状況になっていた。おそらく和人漁業者の進出と昆布需要の増加によるものであろう。