昆布は元禄年間(一六八八-一七〇四)より少量清国に輸出され、その後天文五年(一七四〇)ごろから長崎俵物として本格的に長崎を経由して清国に輸出されていたが、箱館が開港されるや箱館から直接輸出されるようになった。昆布貿易は多額の利益を得るといわれており、清国商人は大量の昆布を箱館で買付け始め、このため蝦夷地産昆布の価格は年を追うごとに著しく騰貴しはじめ、漁師もまたその利を求めて昆布採取に努力したため採取高は増加する傾向がみられた。しかし六個場所では古くから昆布採取場が開発されており、新採取場は見当たらず且つ人工増殖や漁具の改良などが行われていなかったため、漁民の増加した割には採取高は増加していなかった。産額の増加したのは主に漁業人口も増しつつあり新採取場が開発されつつあった東蝦夷地であった。
『新北海道史第二巻』によれば、当時の蝦夷地産昆布の産出額について次のように記している。
文久三年の調査によれば、収量の最高を占めるのは幌泉場所の一万三千石余(天保年間四千五百石)であり、厚岸の七千六百五十余石・釧路の五千五百六十余石(天保年間二千五百石)十勝の四千二百六十余石(天保年間二千石)がこれに次ぎ、浦河は約三千石(天保年間千五百石)様似は二千石余(天保年間六百石)でいずれも従前の二倍ないし三倍となった。ゆえに昆布場所請負人はいずれも収益を増加したが元治元年以後の東蝦夷地増運上金徴収の理由もまたここにあった。