一六〇三年に江戸幕府が開設され、江戸が政治・経済・文化の中心になったことにより、以前よりあった京都・大阪を中心としていた海運のほかに、新たに江戸~大阪間の海運が開かれ、次いで「西廻り航路」と「東廻り航路」が開設された。
西廻り航路は一六七二年ごろ河村瑞賢によって開かれ、大阪-瀬戸内海-下関-北陸-奥羽に至る航路であり、東廻り航路は西廻り航路と同じく河村瑞賢によって一六七〇年に開かれた航路で、はじめ石巻・気仙沼などの奥羽南部諸港から江戸に向かう航路で、後に日本海側の奥羽地方から出航し、津軽海峡を過ぎて太平洋に出て江戸に至るようになったものである。
一六七二年西廻り航路が本格的に開かれる以前より敦賀・小浜方面から主として、昆布をはじめとする海産物を求め蝦夷地に来航する船があったが、このような時期に西廻り航路が開かれたのであるから、この航路はますます発展を遂げ、元和二年(一六八二)ごろには敦賀港に松前の船宿二戸、江指宿二戸、松前物問屋三戸、昆布屋三戸が存在するほどになっていた。
その後この西廻り航路の発達に連れて「北廻り」ともいうべき本州・蝦夷地間の航路も発達するようになり、松前藩はこれに対応して出入港船と貨物に対する課税及び密貿易の取締りをする番所(後に「沖之口番所」となる)を設置した箱館・福山(松前)・江差の三港に限り入港を認めるようになった。
この時代の蝦夷地に来航していた船は、「北前船」(通称ドンブリ船)と呼ばれる船で、北国すなわち加賀・能登・越後・津軽・南部の和船が大部分で、五百石から二千石積の船であった。
また、これらの船の主な航海は、普通、敦賀方面と蝦夷地間は夏登り・秋登りと呼ばれる年二回であり、大阪と蝦夷地の間は年一回の航海で、日本海の荒れる冬期間は休止されていた。西廻り航路は東廻り航路に比べて安全ではあったが、造船技術や航海術が未発達であり更に天気予報など無かったこの時代の航海は、すべて船頭の「勘」に頼られ、常に非常な危険を伴っており、このため水夫たちには「ほまち」の制度が認められていた。
「ほまち」というのはこの当時の船乗りの慣習として、船の積荷の一〇分の一だけは水夫たちの荷物を自由に積むことを許されており、これを入港地で販売し、その利益を水夫たちで分配することを認められていたものであった。水夫たちに対する一種の危険手当の意味をもっているものである。
西廻り航路をとり、更に蝦夷地諸港へ来航する船の積荷は、米・味噌・醬油・塩・酒・茶・煙草・古着・綿・紙・ローソク・陶器・魚網・麻繩・莚などであり、蝦夷地から本州に向け積み出す物は、大部分が昆布を中心とする水産物であり、その他としては熊・鹿の皮・木材等であった。このように西廻り航路の発達に伴ない日本海側諸港及び京都・大阪方面と蝦夷地は、経済的・文化的にますます深いつながりを持つようになっていったのであるが、なぜ西廻り航路が東廻り航路よりも降盛を極めたのであろうか。
それは日本海側は古くから航路が開かれており、冬期を除きほぼ潮も安定し良港に恵まれていること、更に内海の安全航路である瀬戸内海を利用し、貨物の集散地である大阪と直結できること、日本海側では産業が発達し、人口も多いこと、などが理由としてあげられる。これに対して東廻り航路は、太平洋側の江戸以北では産業もあまり発達せず都市もあまり無いこと、黒潮が外洋に流れ出るため(特に鹿島灘の激浪は恐れられていた)遭難の危険が非常に多いことなどであった。
その後江戸の発展や航海技術・造船技術の発達・沿岸航路の充実などにより、前松前藩時代の終わりごろには東廻り航路も頻繁に利用されるようになった。文化・文政年間(一八〇四-三〇)ごろにはこの航路の基点である那珂湊が最盛期をむかえ、江戸-下北-蝦夷地の間はより深く結ばれるようになっていった。