一七〇〇年代の椴法華近海の海運

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 このころの椴法華近海の海運はどのような様子であったろうか。
 元文四年(一七三九)ごろの『蝦夷商〓聞書』によってこれを見ることにする。
 
    蝦夷商〓聞書
  一、トホホッネゟ(ヨリ)ヲサ(ツ)ベ迠十里ハカリ、此間蝦夷村沢山ニ有リ、昆布大出所也、新井田兵内殿御預リ、運上金壱ケ年ニ四拾両宛箱館者共運上ニ申請、二百石ハカリ之小船ニ而度々箱館江通江申候
 
 と記されており、当時椴法華尾札部あたりと箱館の間において、二百石くらいの船により椴法華尾札部からは海産物が、箱館からは日用品・食糧品等が積み込まれ、時々航海されていたことがわかる。
 蝦夷地で大和船が使用されるようになったのは、明和・安永(一七六四―八一)以後といわれており、ここに記された二百石ばかりの船というのは、多分、繩綴船であったものと推定される。
 前にも記したようにこのころ、貨物の運送は繩とじ船が主力であったが、一般旅行者の中には手こぎの小船で、こぎ手を雇い奥地を目指す者もあった。
 寛政三年(一七九一)五月福山を出発して有珠岳を目指した菅江真澄は、その紀行文『蝦夷の天布利』に旅行日程を次のように示している。(日程部分に中心をおき要約す)
 
  二十四日 目的地有珠をめざし福山を出発
       午時荒谷村に着船
  二十五日 荒谷村を出発陸路レヒゲ浦
  二十六日 黒岩から昆布取り船に便乗し吉岡・宮のうた・白府・山背泊・矢越山・小田西・ウスンゲツ(函館)を過ぎヤケマキの浦につく
  二十七日 同船で、小安・釜屋・汐首崎・セタライ・ヨモギナイ・トユイの浦で蝦夷の舟に乗りかえ、鎌うた・原木・檜浦・鴉(からす)がうた・シリキシナイに着き、別の蝦夷船にてコブイ・ネタナイに着き宿
  二十八日 蝦夷船にて跠山(恵山)の麓をすぎ、トドホッケのコタンにつき休むまもなく舟に乗り、蝦夷の家七八軒ある矢尻浜をすぎ、銚子の碕・フルベ大滝・ピルカ浜・尾札部に着き運上屋
  二十九日 同舟にて出発ツキヤンゲ・カツクミ・イタンギ・ウツジリの運上屋で別の舟にかえ、モウセジリ・オイガラ・ホカイカイ・イソヤ・ウムシヤで休み、また船に乗りトコロで休み、サルイシ・シュシュベツ・シカリベツ(鹿部)に宿
 
 このように真澄は昆布取り船に便乗して福山を出発し、海が荒れると陸路を蝦夷地に入っては蝦夷船に乗って民家や運上屋・番屋等にまり、あるいは休息をとりながら六月十日に目的地有珠岳に登っている。
 以上記してきたように繩とじ船や手こぎの船で貨物の輸送や人の移動が行われたが、これはいずれも旧暦の三月から九月までであり、それ以外の大部分の月は海路の使用が出来ない状況であった。その理由は貨物があまりなく、海が荒れるため航行が困難になるからである。またこのほかにも天候状況によっては、何日も航海の出来ない時もあるなど、今から考えると非常に不便なものであった。