文化一四年(一八一七)、尻岸内の村三役から、高田屋嘉兵衛の箱館総支配であった実弟の高田屋金兵衛にあてた儀定の証文は、村方助金並びに前借という昔変わらぬ青田売りによって、尻岸内、根田内、日浦の鱈を向こう五ヵ年、高田屋に納めることを約定している。
また、文政二年(一八一九)の「新鱈讓證文」は、臼尻村の新鱈の買付けは、仲買人の建値によるものではなく、商人組合の鬮(くじ)によって、その年の村々の買付けをとりきめたことを示すものである。鬮は当てたが井筒屋、和賀屋ともどもに高田屋へ臼尻の新鱈を譲渡したときの証文である。
また、文政一〇年(一八二七)に江戸へ送る臼尻の新鱈を、荷の送り主から佐井浦の富繁丸船主などに、同浦問屋が箱館の雇船主と同所問屋との間で、船賃を取り決めた「雇船」約定の書付けがある。
(市立函館博物館 高田屋嘉兵衛展出陳目録より)
新鱈儀定證文之事
一當村新鱈□積去亥年ゟ丑年迄儀定仕候処
年々積入出来□付 来寅年ゟ午年迄五ヶ年貴殿江取組儀定
仕候処実正ニ御座候 尤村方助金並鱈直段前借等之儀者
年々之漁次第ニ依而取究メ可申定ニ御座候 右年限相済
脇方江取組候共 其節者貴殿江相請テ及可申候 依而儀定
證文如件
尻岸内村百姓代
又三郎 印
小 頭
文化十四丑年十二月 治右ヱ門 印
頭 取
清九郎 印
根田内村百姓代
六兵衛 印
小 頭
文治郎 印
日 浦 小 頭
国右ヱ門 印
百姓中
證人 亀屋
武兵衛 印
同 和賀屋
宇右ヱ門 印
高田屋金兵衛 殿
新鱈儀定證文
臼尻村新鱈讓證文之事
臼尻村新鱈壱番弐番船共 拙者鬮當リ候処 此度貴殿江 讓金壱番船金五拾両 弐番船三拾弐両弐歩都合八拾弐両弐歩ニ相定 讓渡申処実正ニ御座候
尤右金高之内四拾両 只今慥ニ受取 残金四拾弐両弐歩者 當秋中ニ受取可申定ニ御座候 然上者町会所余内金
並ニ外掛物等 拙者方ニ而 講(構)無御座候 右新鱈ニ付外方里如何様之議申出候共 拙者共罷出
貴殿江少茂御苦労相掛申間鋪候 為後日臼尻新鱈壱番弐番船共讓證文仍而如件
井筒屋
喜 兵 衛 ㊞
文政二年
卯五月廿六日
宿和賀屋
宇右衛門 ㊞
高 田 屋 金 兵 衛 殿
臼尻村新鱈譲證文
江戸廻臼尻新鱈壱番雇船儀定之事
富繁丸
一 五百石積
但 運賃江戸附百石ニ付金三拾五両定
此運賃 金百七拾五両
内
一金八拾七両弐分 雇船前金ニ而
此度請取
但シ此前金之外 粮米等ハ 於箱館表
別段御店ゟ 御渡被下候筈 御約定
仕候
残
金八拾七両弐分
右者江戸着岸 直々 荷揚 前書粮米代等
差引 残り金ハ引差御渡被下候筈
一 積所臼尻江相廻リ 新鱈積入 増石之儀者 前書
運賃定を以 御取引可仕候
一 船中 諸入用之外 積所御役金等ハ 船手一向構
無之定
一 雇船相極候上者 萬一御異変之儀有之候共
其節者 貴殿方ゟ 百石ニ付 金三拾五両積を以
五百石分空船運賃ニ 急度御渡被成候筈
約定仕候所 相違無御座候
右之通 貴殿方江 當亥年新鱈積ニ 拙者
手船雇船ニ相成候所 相違無御座候 為其
約定證文 依而如件
富繁丸 船主 盛岡佐井浦
文政十年亥九月廿五日 松屋 傅 四 郎
佐井浦 問屋
松谷 傅 治
松前箱館御雇船主
中村屋 新三郎 殿
良 助 殿
同所問屋
中村屋 新三郎 殿
(資料 青森県 大石健次郎所蔵)
江戸廻臼尻新鱈壱番雇船儀定(写)
こうして新鱈は鱈場所から箱館の高田屋によって買い集められて、慶祥丸と同じように、多くは下北の船主船頭らによって、江戸の正月にむけて冬の海を送られていったのである。