渡島汽船株式会社

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大正一〇年、臼尻尾札部でも回漕店の設立を望む声が高まった。
 臼尻の漁業家て小川幸一郎は沿岸の有志の強い支持をうけて、海運会社の設立を準備した。
 
   主な株主
  臼尻  村井己代松 熊谷喜三吉 二本柳吉三郎 勝又喜代吉 京谷重吉 白鳥惣太
  板木  工藤梅蔵 工藤石太郎
  川汲  斉藤仁太郎 坂本安太郎
  尾札部 竹中重蔵 渋田武雄 内藤二太郎 能戸忠義
  木直  長谷川忠太郎 本間伊三郎 西出太作 田名部石五郎 折田辰三郎
   函館の大株主
  一四〇株  目黒徳次郎   一二五株  高橋老吉
  一〇〇株  函館製網船具株式会社
   八〇株  信永吟一     七九株  株式会社西浜造船所
   五五株  熊木幸作     五〇株  宮本武之助
   四〇株  株式会社北門銀行
 
 株数合計 三、〇〇〇株、株主四五七名であった。
 大正一〇年一〇月二五日、創立総会を開き、社長に小川幸一郎を選任して渡島汽船株式会社が創業した。会社は函館市東浜町一五番地で電話一三三四番であった。
 大正一〇年一二月末には定期船は※回漕部の西久丸・一二丸・西海丸で、椴法華から熊(大船)まで寄港し、在来からの〓工藤回漕部との間に、村内を二分する熾烈な貨物輸送の競争が繰り広げられた。
 
   茅部亀田航路、両汽船対抗運賃競争か           函館新聞/大正一〇・一二・二九
   既報の如く、茅部郡鹿部、臼尻尾札部、亀田郡椴法華村有志は、函館を基点とする亀田茅部両郡沿岸航路を開始すべく臼尻村小川幸一郎、田中恒、板木村工藤梅蔵氏等を発起人となり茅部汽船会社を設立し、資本金七万円株式組織とし、各村に割当と募集中なるが成績良好にて未だ満株には達せざるも、既に本月初旬創立総会を開催したり。
   而して其目的は、多年同航路を独占的に経営し来れる当区地蔵町山三木(やまさんぎ)工藤海運部に対抗する計画なるは勿論にて、使用船舶は二隻を就航せしむる筈なるが、仄聞(そくぶん)する処によれば右予定汽船は目下本道某港に於て傭船契約中とて、本年中には航路開始の見込なく明春早々なるべしといふ。

(表)

   右に関し、同航路は多年工藤海運部にて独占し居れるが、同方面は産業上の関係より当港に回送する貨物は時期によりて異動あるも総体に近海他航路に比較して貨物尠少なれば、両汽船対抗し四隻が当港を基点に就航せんが、沿岸寄港地は乗客の便多からんも工藤海運部が独占時代にても経営容易ならざりしを聞くに徴すれば両汽船の対抗は問題にて、対抗競争とならば勢ひ貨客運賃の値下げとなるべく、結局は両者相共に傷付くに至らんと観測せられつつあり。
 
     大正一一年一月六日    函館新聞
      堀差丸 大湊  七日後十時
      ○渡島汽船株式会社
      定期 西久丸  七日後十時
      定期 一二丸  七日後十時
      定期 西海丸  七日後十時
        椴法華、古部、木直、見日、尾札部川汲、板木、臼尻、熊
        東濱町五番地
      電話二一七 合名会社 ※回漕部
            荷受所仲濱町日魯会社横通り
 
大正一五年一〇月一日 渡島汽船株式会社は北海道庁命令航路となり芸陽丸を森まで、共益丸・西久丸を磯谷まで定期運航をするようになる。
 同年一〇月一日付函館新聞に次のように広告がある。
 
  毎月同じ 卅(卅一日) 三日 六日 十日 十三日 十六日 廿日、廿三日 廿六日
       後一一時 出帆
  芸陽丸 電気装置 戸井 日浦 尻岸内 女那川 古武井 根田内 磯谷 元椴法華 法華 椴法華 古部 木直 見日 尾札部 川汲 板木 臼尻 熊 磯谷 森
  共益丸      戸井 日浦 尻岸内 女那川 古武井
  西久丸      根田内 磯谷 元椴法華 椴法華           毎日
           木直 見日 尾札部 川汲 板木 臼尻 熊 磯谷  毎日
    末広町一四番地 電話一三三四 荷捌所 仲浜町スコット倉庫 渡島汽船株式会社
 
大正一五年一〇月一日    函館新聞
  順天丸  一日 後十二時 戸井~本別行
  鳳至丸  同所 三日
  春日丸  戸井ヨリ鹿部 後一〇時
       〓 工藤回漕店
   荷捌所 仲浜町  スコット倉庫内