菅江真澄(すがえますみ)(一七五四~一八二九、三河国〈愛知県〉出身)は、寛政八年(一七九六)四月十四日、現在の青森市三内(さんない)において縄文土器ならびに土偶などを実見し、それに考察を加えて『栖家(すみか)の山』に書き記し(2)、同年七月二日には亀ヶ岡で掘り出された各種の土器を検分して、『外浜奇勝(そとがはまきしょう)』に記している(3)。なお、真澄は文政五年(一八二二)ころに『新古祝甕品類之図(しんこいわいべひんたぐいのず)』を著し(4)、その中で、現在の大館市橋桁(はしけた)と本県の亀ヶ岡出土の土器を比較し、類似点を記述している。
菅江真澄画像
(大館市立中央図書館蔵)
「新古祝甕品類之図」 表紙と一部
(大館市立中央図書館蔵)
これより先の寛政年間に、弘前の工藤常政(くどうつねまさ)(屋号が練屋(ねりや)のため練屋藤兵衛(とうべえ)ともいわれる)が、『津軽俗説選(つがるぞくせつせん)』五巻を著し(5)、「乳井大円寺の石器」と称し石鏃(せきぞく)を天狗鏃斧として紹介している。
一方、この時代における政治の中心地であった江戸では、滝沢馬琴(たきざわばきん)ら一二人の文人が集まって「耽奇会(たんきかい)」を結成し、文政七年(一八二四)五月から毎月一回の割合で上野の不忍池(しのばずのいけ)畔にあったという淡々亭に集まり、各人が収集した珍品を持ち寄り批評会を催していたといわれる。それらに関する記録が『耽奇漫録(たんきまんろく)』に掲載されており(6)、亀ヶ岡出土の土偶や土器が、土偶人・古磁器・古陶器などの名で満座の注目を浴びていたらしい。
時代が江戸時代末期のいわゆる幕末期に入ると、樺太や蝦夷地探検で名をはせた松浦武四郎(まつうらたけしろう)(一八一八~一八八八)が、その著『東奥沿海日誌(とうおうえんかいにっし)』の中で亀ヶ岡とその北に位置する筒木坂(どうぎざか)から多数の土器類が出土することを記述し、特に筒木坂は陶器坂であろうとの見解を披瀝(ひれき)している。また、下北(しもきた)半島の佐井(さい)村にある矢根森(やのねもり)八幡(八幡堂)、むつ市女館(おんなだて)、津軽半島の小泊(こどまり)・三厩(みんまや)村などにおいて石鏃が発見されている旨をも記している(7)。
幕末期は、本県においても続々と文化人が登場し、多くの記録・日誌などを残している。
平尾魯仙(ひらおろせん)(一八〇八~一八八〇、弘前の人、国学を学び画道に親しみ、数多くの書を著す)が、『合浦奇談(がっぽきだん)』(一八五五)に〝掘地獲古物〟のタイトルで、津軽の各地で発見される石鏃・石斧(せきふ)・土器などを地名入りで記し(8)、『谷の響』(一八六〇)では、現在の尾上(おのえ)町八幡崎(はちまんざき)遺跡(県史跡)から多数の土器、弘前市小栗山(こぐりやま)では七本の石斧、同市独狐(とっこ)からは亀ヶ岡式タイプの土器が出土することを記している(9)。
平尾魯仙画像(個人蔵) 平尾魯仙著「谷の響」甲・乙(弘前市立図書館蔵)
平尾魯仙著「合浦奇談」の表紙と一部(弘前市立図書館蔵)