住居

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住居は寒暖風雨から身を守り、安眠休息し、また家族とのコミュニケーションならびに絆(きずな)を保つ場として維持されてきた。これらの住居が数棟あるいは数十棟ほど集まると集落を構成し、連係や相互扶助を保持するためにも世話役が必要となるであろう。
 三内丸山遺跡では、このような世設役より強い権限をもった指導者の下に住民が糾合し、その指令に従って行動していたものと考えられ、一方の指導者は計画性をもって集落経営にあたっていたと思われる。もし統率者も居ない無秩序の状態であるとなると、掘立柱の建造物をはじめ、墳墓・盛土や大型を含めた住居などの施設は随所に設置され、とても現在みられるような、一定の区域に秩序をもったまとまりを保つことはできないであろう。発掘された住居跡はおもに中期の円筒上層式土器が使われた時期のものであるが、重なり合い互いに切り合う重複状態で発見される現状をとらえると、定められた区域の範囲内に住居を造営し、その区域以外には建築が許されない集落内部の約束事が感じられる。恐らく野球場建設候補地であった北地区の中央近くより、東へ延々と四二〇メートルにわたって続く土壙墓(大人の墓)も、何世代にもわたって集落内の約束事を守り集落構成員が互いに協力し合って設置されたものなのであろう。

岩木町・湯ノ沢遺跡で検出された住居跡(後期)

 さらに加えると、直径一メートルを超えるようなクリの巨木を切り、運搬し、そして立てた大事業は、指揮する指導者と、それに従った集落構成員の信頼と一致協力の結果であり、ことによると階層組織がある程度確立していたことも考えられる。
 さらに、世代交代を繰り返しながら祭祀が終了し、それぞれセレモニーに用いられた品々(土偶・石偶(せきぐう)・岩偶(がんぐう)、各種の装飾品、土器など)が役目を終わって奉納あるいは廃棄され、それらが何層にも積もり積もって盛土を形成している盛土遺構の状況を考察すると、三内丸山の集落が指導者と住民との信頼によって成り立ち経営されていたことが理解できよう。
 住居の構造は竪穴式が一般的であり、平面の形状に即して柱が立てられ、梁(はり)・桁(けた)が渡され、屋根は茅葺きか、あるいは板葺きであったろう。土葺きも考えられている。板葺きは丸太に楔(くさび)を打ち込んで板状に割り、並べられた板の上に樹皮を張った構造であったろう。柱にはクリ材が使われており、また遺跡の北側から中央部へ向かって入る「北の谷」の土壌中から採取した花粉を分析した結果、クリが圧倒的に多いといわれる。一定の年数を経ると切り倒され、補植されながら管理栽培を行っていた可能性も高く、建築材として、また食料としてクリは他の樹木にまして重要視されていたものと思われる(35)。
 建築に関する技術的な面では、富山県小矢部(おやべ)市の町(さくらまち)遺跡において、貫穴(ぬきあな)・桟穴(えつりあな)・渡腮(わたりあご)を有する柱が出土し、またヒノキを薄く割った柾目材による網代(あじろ)組みもあって壁面に利用されていたらしい。発見された柱材の長さ・貫穴・桟穴などの彫り込まれている位置から、壁立式の高床建築が想定されている(36)。

貫穴と桟穴を有する柱材(富山県小矢部市・町遺跡)

 近年の開発に伴う緊急調査は広大な面積を発掘することも多く、しばしば大型竪穴住居の発見に遭遇することがある。青森県では縄文早期の白浜式土器に属する例が下田町の中野平遺跡で発見され、長軸が一二メートルを超える隅丸(すみまる)長方形を創始とし(37)、縄文前期の終末期(円筒下層のd式期)において、一〇メートルを超える楕円形(長円形の形状の方が正しい)住居跡が三内丸山遺跡で発見され(38)、また隣の秋田県能代市杉沢台(すぎさわだい)遺跡では、長軸が一六メートル、幅が六・六メートルを有するものや、推定長軸三一メートル、幅八・八メートルの住居跡が前期の遺物を伴って発見されている(39)。このように巨大な住居跡は次の中期に入っても継続し、三内丸山遺跡において長軸三二メートル、幅一〇メートルを有するものが発見され、現在復元されて一般の見学に供されている(40)。
 このような大型住居の造営について、雪国に多いことを理由に、冬季における共同作業場・集会所、現代の公民館的役割をもち、集落の重要な問題を議す場所とする考えもある(41)。

弘前市・大森勝山遺跡で検出された大竪穴住居跡(晩期)