蝦蛦

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ところが七世紀中ごろから、大和政権による東北経営が進むにつれて、東北地方の人々についての具体的な知識が広まり、音はその「エミシ」のまま、新たに「蝦蛦」という表記(写真9)が使用されるようになったらしい。

写真9『日本書紀通證』巻之二十九
「蝦蛦」の表記

 『日本書紀』では、皇極天皇元年(六四二)九月から持統天皇三年(六八九)正月にかけて、一三条にわたり、この見慣れない「蝦蛦」という漢字が使用されている(史料一七以下参照・写真9)。これは『日本書紀』編纂(へんさん)に際して、その元となった史料の用字がそのまま踏襲された箇所にみえているのである。「蝦夷」の表記が定着する以前の段階で、この「蝦蛦」という表記が使われていたことはまちがいない。
 ではこの難しい用字は、いったいエミシのどのようなありさまを伝えるものなのであろうか。『爾雅翼(じがよく)』『別国洞冥記(べっこくどうめいき)』『交広記(こうこうき)』その他の中国の古辞書類や古典によれば、「蝦姨」の「蝦」の字は「鰕」=エビに通じ、鬚(ひげ)の多いことや、鬚の長いこと、つまり毛深さを表現したものであり、一方の「蛦」は、山に棲む虫や鳥を表わす語であるとされる。
 ちょうどそれに対応するように、この時代の中国の歴史書である『新唐書(しんとうじょ)』『通典(つてん)』が、斉明天皇五年(六五九)の遣唐使に連れられて渡唐した日本のエミシについて、「使の鬚の長さ四尺ばかり」とその容貌を記しており、これはまさに「蝦」の字義にかなっているといえよう。ちなみにこの『新唐書』では、エミシについて「蝦蛦」という用字が使用されていることに注目される。
 この斉明天皇五年(六五九)の遣唐使がエミシを同行したのは、時の唐の皇帝高宗にそれを披露して、日本も異民族を支配する国であることを誇示するためであったと推測されるが、その一行のうちにあった伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)が、その様子を詳細に記録して『伊吉連博徳書』という本にまとめていて(『日本書紀』がそれを引用している)、これが当時のエミシの風貌についての貴重な記録となっている(史料二六)。まずそれによって、高宗と遣唐使とのやりとりを紹介しよう。
 
高宗「これらのエミシの国は、いずれの方にあるのか」
使人「国は東・北にあります」
高宗「エミシには何種類あるのか」
使人「三種類あります。遠い者を都加留=ツカルと名づけ、次の者を麁蝦夷=アラエミシと名づけ、近い者を熟蝦夷=ニギエミシと名づけています。今連れてきているのはニギエミシです。毎年日本の朝廷に入貢しております」

高宗「エミシの国に五穀はあるのか」
使人「ありません。肉を食して生活しています」
高宗「エミシの国に屋舎はあるのか」
使人「ありません。深山のなか、樹の根本にとどまり住んでいます」
高宗「朕はエミシの身面の異様さを見て、大変喜び、また珍しく思う」

 
 『日本書紀』はこの『伊吉連博徳書』に続けて『難波吉士男人書(なにわのきしおひとのしょ)』を引用しているが、それによれば、このエミシは弓三・箭(や)八〇を持参しており、また中国側の記録によると遣唐使はエミシの頭の上に瓢(ひさご)を載せ、四〇歩離れた場所から別のエミシに頭上の瓢を射させる弓術を実演させ、百発百中であったとも伝えられている(『新唐書』『通典』『唐会要(とうかいよう)』)。
 また齶田(あぎた)エミシの族長としてその名が知られる恩荷(おが)は、阿倍比羅夫に降伏した際に、弓矢の所持は官軍に対してではなく、肉食生活のためであると述べた(阿倍比羅夫北征については後述)。事実として、エミシの世界では、縄文以来の、山での狩猟生活がなお一定の比重をもって引き継がれていたのである。また『日本書紀』景行(けいこう)天皇四十年条(写真10)の、天皇が日本武尊東夷征討を命じた詔(みことのり)のなかの記述に、「冬は穴居生活、夏は樹上家屋の生活」であるとか、「山に登るときは飛ぶ鳥のように速く、草原を走るときは逃げる獣のように速い」「束ねた髪のなかには矢を隠し、刀は衣のなかに隠し持つ」「攻撃すると草原のなかに隠れてしまい、追いかけると山中に逃げてしまう」(史料五)などとあるのも、同様であろう。この記述も、景行天皇紀にかけられてはいるが、おそらく七世紀ころの中央貴族のエミシ観念を伝えるものである。

写真10『日本紀標註』巻之八

 ちなみに、エゾの子孫を名乗った津軽安藤氏の末裔・秋田氏に伝えられた「重代小弓(じゅうだいのしょうきゅう)」(写真11)も、アイヌの弓であるといわれている。和人の長弓に対してこうした短弓は、東北アジアの諸民族特有のものであるといわれ、そうした伝統が後世まで残っていたわけである。

写真11 秋田氏重代小弓
秋田氏に伝来したもの。蝦夷の弓の伝統を伝えるという。

 このように、当時のエミシは、弓術に巧みであってそれによって肉食で生活を維持し、また山地居住であることが強調されているが、ここにはエミシを狩猟民的存在であると強調するための文飾が多分に含まれているとは思われるものの、「蛦」の字が意味するエミシの生活の在(あ)り方が、そのままよくあらわされているといえよう。また高宗が、エミシの身面の異様さを見て驚いたというのは、おそらく『新唐書』や『通典』がいう「エミシの使の髭の長さが四尺」もあったという点に通じるものと思われ、「蝦蛦」なる表記は、毛深く、また山に住むという、エミシの風貌や習俗を端的にあらわした用字だとみてよいのではなかろうか。