写真44 多賀城跡(宮城県多賀城市)
一方、日本海側では、天平五年(七三三)に、出羽柵を秋田村の高清水岡(たかしみずのおか)に移すという記事があって(史料九二)、これが秋田城(写真45)の創建であるとされている。それ以前の出羽柵の所在地については諸説あるが、庄内平野を中心とする出羽郡のなかにあったことは間違いない。この移建によって、出羽柵は一挙に百キロメートル以上も北進したのである。
写真45 秋田城跡 復元された外郭東門と築地塀(秋田県秋田市)
そしてこの多賀城と秋田の出羽柵とが結ばれたのが、天平九年(七三七)の陸奥按察使・陸奥守・鎮守将軍大野東人と出羽守田辺難波(たなべのなにわ)とによる、大部隊を派遣し、男勝(おがち)村を経由しての「直路」=新道開通作戦によってであった(史料九四・九五)。ただし男勝村の征討ができなかったので、完成するのは天平宝字四年(七六〇)の雄勝(おがち)城造営(史料一〇五)まで待たなければならない。
その後、この東北経営=征夷事業が活発化するのは宝亀年間になってからである。その大事業が一段落した弘仁二年(八一一)に、時の征夷将軍文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)の嵯峨天皇に対する奏上文(史料二八五)中に次のようにみえる。
宝亀五(七七四)年より今年に至るまで合計三八年を要した。これまで辺境の蝦夷がしばしば動き、警戒を緩めることができなかった。老いも若きも、強者も弱者も、ある者は征討と守備に疲れ、ある者は戦需物資の運送にあきあきしている。民衆は疲れ果てて、休むこともできない。
まさに光仁・桓武・平城・嵯峨と四代の天皇にわたる「三十八年戦争」ともいうべき長期間の戦争状態を経験したわけである。
その原因は、藤原仲麻呂~道鏡政権下での蝦夷征討作戦の強行にある。それまでの律令国家の直接の支配領域は、すでに古墳文化の時代に、程度の差こそあれ、何らかの形で大和政権とかかわりのあった地域のなかにとどまっていた。だから蝦夷側の抵抗もそれほど強くはなかったものと思われる。それが仲麻呂政権のころから、さらに北へ踏み出して、海岸部では天平宝字四年(七六〇)の桃生(ものう)城、内陸部では神護景雲元年(七六七)の伊治(これはり)城と、まさに律令国家にとって未知の世界に入り込んでいったのであるが、それに対して、今度は蝦夷側も本気で抵抗を始めたのである。
宝亀五年(七七四)七月、桃生地方の「海道蝦夷」が、桃生城を焼き討ちするという事件が勃発した(史料一二九)。「三十八年戦争」の始まりである。時の陸奥按察使・陸奥守・鎮守将軍は大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)で、例によって陸奥按察使と陸奥守とを兼ねていた。鎮守副将軍は河内守紀広純(きのひろずみ)である。駿河麻呂は、蝦夷の侵略は大したことがないので、征討はやめたいなどといっていたが、光仁天皇に譴責(けんせき)されて、十月、歴代将軍がまだだれ一人として入ったことのない遠山(とおやま)村(現在の宮城県登米(とめ)郡内か)を直撃する。
これはそれなりの成果を収めたらしいが、蝦夷の抵抗がやんだわけではなく、これ以後、宮城県北域では律令国家と蝦夷との衝突が恒常化していくこととなった。とくに問題となったのは、蝦夷勢力が、さらに奥地の胆沢や出羽方面とも連携をとっていることが明らかになったことである。三十八年戦争の主要な舞台である胆沢の名が、ここに浮かび上がることとなった。胆沢の地名の史料上の初見は、宝亀七年のことである(史料一四三)。