平安時代の大規模集落

106 ~ 108 / 553ページ
七・八世紀代に丘陵上に形成された雑穀栽培主体の生業形態をとる、あるいは後背地に平野の開けた海辺部に形成された小規模集落は、九世紀代には極端に減少し、丘陵低位面や微高地上に形成され、稲作主体の生業形態をとる大規模集落が多くみられるようになってくる。このタイプの遺跡に、河川中・下流域の沖積平野の開拓を行い、数世代にわたって定住するという特徴がみられる。九世紀前半では、浅瀬石川水系の尾上町李平下安原(すもだいしもやすはら)遺跡や黒石市浅瀬石遺跡が挙げられるほか、浪岡町を流れる大釈迦川流域の遺跡群がこれに該当するであろう。
 九世紀中葉には、竪穴住居跡の外周に馬蹄形状に溝をめぐらし、その開口側と同一の南東ないし東方向にカマドの主軸方位をもつ極めて斉一性の強い集落が出現する。津軽地方では、浪岡町松元遺跡がこのタイプの集落の最初のまとまった調査例として知られていたが(図14)、その後、しだいに事例を増して建物跡の実態がより明らかになってきた。すなわち、九世紀中葉から一〇世紀前半にかけては、竪穴住居跡と一体の施設としてカマド側に掘立柱建物跡、これらを馬蹄形状に囲む外周溝、それに付随すると思われる土壙からなる形態の建物跡群で構成される集落が盛行(せいこう)し、その分布は浪岡地域を中心として青森地域まで及ぶ津軽地方、そして上北地方にまで広がりをみせる。浪岡町野尻(4)遺跡は、南東方向に主軸をもつこのタイプの建物跡群を主体として、複数の建物跡で共有された井戸跡、小規模の耕作跡(畝状(うねじょう)遺構)、墓域などで構成される典型的大集落である。外周溝の機能については、竪穴住居への浸水防止・排水のための施設と考えられるほか、開口側が傾斜面に逆行する事例やほとんど傾斜のない地形に形成される事例があることから、その機能は多様であったと考えられる。建物跡群の方向性の一致は、集落の構成員間での協調性を図る、たとえば信仰集団におけるような強い規制が関係していたことも想定できるであろう。

図14 外周溝を伴う竪穴住居跡群(浪岡町松元遺跡)

 平安時代中葉における弘前市内の遺跡としては、九世紀後半から一〇世紀前半の竪穴住居跡六軒、堀跡二本、土壙五基が検出された下恋塚(しもこいづか)遺跡(図15・写真56)が知られている。また、九世紀中葉にはロクロ使用で叩き出し丸底の北陸型長胴甕(ちょうどうがめ)が、九世紀後半には北陸地方で多く用いられた土鍋が普及し、北陸地方との交流関係がうかがわれる(図16)。

図15 下恋塚遺跡出土の土師器


写真56 下恋塚遺跡二号住居跡


図16 北陸系の土師器