写真58 馬の線刻画の描かれた土師器(浪岡町野尻(4)遺跡出土)
また、口縁部や頸部に横走平行沈線文をめぐらす深鉢は、初期の段階から現在のところ終末期とされる段階まで認められるので、独自の変遷が辿(たど)れるのかもしれない。弘前市でも一〇世紀後半から一一世紀代を盛期とする早稲田遺跡の竪穴住居跡、焼土遺構、溝跡、一一世紀代を主体とする荼毘館(だびだて)遺跡第一〇一号竪穴住居跡や境関館遺跡、あるいは後に触れる中崎館遺跡でもこの類の土器が出土している。なお、終末期に位置付けられる横走沈線文土器の分布は、津軽地方から北海道西南部にほぼ限定されており、この地域における独自の交流関係がうかがわれる(図28)。
図28 後半期~終末期の擦文土器
北海道地方における擦文文化は、前半期には道央部に分布の中心がみられたが、後半期になると道東部や道西北部に分布の中心が移り、集団の移動が起こったことも考えられている。これは、おそらく交易物資としての資源をより安定的に自らの手で確保するための生計戦略であったと推定される。北海道地方と津軽地方の交流関係は、九世紀後半から一〇世紀後半の操業とされる五所川原須恵器窯跡群から供給されたと考えられる製品が北海道の中央部(六遺跡)を中心に西北部(三遺跡)、南部(三遺跡)および東部(一遺跡)の擦文文化の遺跡で出土していること、さらに鉄は、本州側からの最も重要な交昜品のひとつであったが、一〇世紀中葉から一一世紀に津軽地方の岩木山麓で大規模な鉄生産が行われていたことから、米代川流域の製鉄遺跡とともに擦文社会への供給が目的であったことを想定できるであろう。一〇世紀後半~一一世紀前半の鯵ケ沢町杢沢(もくさわ)遺跡では、ごくわずかではあるが擦文土器が三点、同大館森山遺跡では一点出土している。