その一方で、それまでの勢力をふるった在地豪族が歴史から姿を消していった。岩手県域でみると、胆沢・江刺地方では上毛野胆沢公(かみつけぬのいさわのきみ)氏、斯波(しわ)地方では物部斯波連(もののべのしわのむらじ)氏、磐井地方では陸奥磐井臣(むつのいわいのおみ)氏、和賀地方では和我君(わがのきみ)(連)氏といった、その地の譜第の有力豪族ともいうべきものが史料にみえなくなる。
それらに代わって台頭してきた新興豪族の筆頭が安倍氏であったのである。また太平洋岸の南三陸地方では、陸奥国府との関係を強めた金(き(こ)ん)氏一族も台頭しつつあった。
とくに安倍氏は青森県域とも深いかかわりをもっていたが、その動向を伝える唯一の史料が、前九年合戦の模様を語る『陸奥話記』である。そしてよく知られているその冒頭には、前九年合戦以前の在地の状況について、以下のように述べられている(史料四三八、ただし写本によってかなり字句の異同がある)。
六箇郡の司(内ヵ)に安倍頼良(よりよし)という者あり。これは同忠良(ただよし)が子なり。父祖忠頼(ただより)、東夷の酋長となり、威名大いにふるい、村落皆服す。六郡に横行して、庶士を囚俘(とりこ)にし、驕暴滋蔓にして、漸くに衣川の外に出づ。賦貢を輸(いた)さず、徭役(ようえき)を勤むることなかりき。代々己をほしいままにし、蔑(ないがしろ)にすといへども、上(かみ)、制すること能はず。
一〇世紀半ばころ、安倍氏は鎮守府将軍の権力基盤である奥六郡(岩手・志波・稗貫・和賀・江刺・胆沢)を支配する、蝦夷系豪族のなかから台頭してきた一族である。実際に郡司であったかどうかは議論があって定まらないが、右の史料にあるように、国府から郡内の官物輸納や雑役勤仕を任せられた存在であったことは確かである。ただ実際にはそれを怠たり、国府もそれを制することができなかったのである。
またやはり右の史料にあるように勢力の南限は衣川で、東には対立する気仙郡司金氏一族が(史料四四〇)、北には「鉇屋(かなや)(岩手県北部三戸~九戸方面)・仁土呂志(にとろし)(二戸付近)・宇曽利(うそり)(下北方面)三部の夷人」の長としての安倍富忠(あべのとみただ)の支配する地域が広がる(史料四四五)。
富忠は、俘囚ではなく「夷人」そのものが安倍姓を名乗っているわけで、南からの安倍氏による擬制的な族制結合の北への拡大がみてとれよう。
なお、奥六郡の北に広がる糠部(ぬかのぶ)地方は、擦文土器が極めて希薄な世界であり、そこはやはり北海道とは無縁な、名馬「糠部の駿馬」の産地でもある。