前九年合戦の戦功により、清原武則は俘囚としては初めて鎮守府将軍に任ぜられた。清原氏は本拠の仙北三郡(雄勝・平鹿・山本)に加え、安倍氏の所領であった奥六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貫・志和・岩手)をも領有し、飛躍的に勢力を拡大していった。
延久北奥蝦夷合戦の功により鎮守府将軍になった清原真衡は、その後、独裁政治的な体制を志向していったため、一族内部で軋轢が生じていった。やがて真衡とその異母兄弟清衡・家衡らが衝突し、そこに北方世界の支配者としての自負と野望をもつ源頼義の嫡男義家が介入したことから、永保三年(一〇八三)、後三年合戦が勃発した(史料四六八)。それは同族的共同支配の段階から、嫡宗である鎮守府将軍真衡による家父長的専制支配体制への急激な転換に伴う清原氏内部での摩擦・抗争を基本的な背景にしているものと考えられている。
合戦の前段は真衡の病死で停戦を迎えるが、陸奥守として赴任してきた源義家が、奥六郡のうちから清衡に胆沢・江刺・和賀という肥沃な南部の三郡を与え、家衡(真衡の弟、清衡の異父弟)には北部三郡を分与したことから後段に入っていく。それは清原氏一族の内紛の契機となり、やがて兄義家の苦戦を聞いた新羅三郎義光の参戦などもあって、義家・清衡同盟を介して一気に奥羽地方への支配権拡大を目指す源氏と、独立を全うしようとする清原氏との対決という構図となり、戦火は奥羽全体に拡大していった。数万の軍勢による激しい攻防の末、兵糧の尽きた清原氏は金沢柵で滅亡する。一方、中央政府は義家の介入を「私闘」として公戦とは認めず、論功行賞を行わなかったばかりか、荘園の寄進や院昇殿を禁じ、陸奥守を解任してしまう。