為信の離反

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元亀年間のころ、南部家中は晴政支持派と信直支持派とに分かれ、内紛を引き起こしていた。晴政らは、信直支持派の剣吉城主北信愛、浅水城主南慶儀(盛義)を攻め、さらに、七戸氏八戸南部氏らにも支持を求めていた(第二節参照)。そのような南部領国の混乱のさなか、元亀二年(一五七一)五月、大浦為信(写真197)は反旗を翻(ひるがえ)し、石川城を攻め、石川高信は自害したと伝えられる(史料九八六~九八八)。

写真197 津軽為信木像

 為信の離反とその後の津軽の情勢については、南慶儀より八戸政栄に報告されているが(史料九八九)、九戸・久慈など一門の不穏な動きのまえに有効な手だてが講じられないままに時間のみが過ぎていった。そして、為信は安藤愛季(ちかすえ)や庄内の大宝寺義氏(だいほうじよしうじ)と好みを通じることで南部氏を牽制しながら勢力を拡大していった(史料一〇〇八・一〇〇九)。
 天正三年(一五七五)八月、為信は大光寺城を攻めたと伝えられる(史料一〇〇〇~一〇〇二)。このときは「大光寺之勢以ての外強く、大浦殿漸帰り候」というが、翌年正月には再度大光寺城を攻め、城代瀧本重行(たきもとしげゆき)を南部へ敗走させたと伝えられる(史料一〇〇五~一〇〇七)。さらに同じころに、浅瀬石城ほか十余ヵ城を攻略したとも伝えられ(史料一〇〇八)、南津軽一帯を手中に収めた。
 こうした為信の勢力拡大を支えたのは、譜代の家臣団のみならず、安藤・南部両氏の侵攻によって浪人となった隣国の比内・鹿角の領主層や、東国・北陸・畿内近国から移住してきた武士たちであったという。そして、こうした浪人・武士を自らの家臣団に編成しえたところに、新興勢力大浦氏の特徴があったという。