写真199 安倍(安藤)愛季坐像
天正三年(一五七五)、織田信長は愛季郎従南部宮内少輔の帰国に際して愛季へ書状を遣わしている(史料九九七)。この宮内少輔という人物は、天正十年の信長死没のときまで一年おきに上洛している。これより以前の永禄十三年(一五六九)三月十五日、「津軽之南部弥左衛門」が上洛して山科言継を訪問しているが(史料九九七)、同一人物であるとみられている。愛季の家臣であるにもかかわらず、「津軽之南部」を名乗って上洛させたのは、山科家と浪岡北畠氏との関係から、浪岡御所を前面に立ててのことであったという。一方、安藤氏と浪岡北畠氏との関係では、たとえば、為信に攻められた顕村は愛季の娘を正室としていた。また、浪岡城陥落後、顕村の従兄弟である北畠弾正・右近慶好(のりよし)(のちに「季」字拝領により季慶と改名)父子は愛季のもとに来て檜山城の西側の茶臼館に居を構え(史料一〇一八)、のちに南部宮内少輔とともに愛季の外交担当者となっている。愛季が為信による浪岡北畠氏の攻略後、津軽に侵攻したのは、愛季と浪岡北畠氏との間にこのような関係があったからである。
さて、愛季は天正六年(一五七八)から津軽に侵攻を開始するが、このとき、夷島の蠣崎季広が愛季を支援し浪岡口への出陣をするなど(史料一〇二四・一〇二五)、大規模な攻撃を行い、天正七年の七月の出陣では平賀郡茶臼山・六羽川(ろっぱがわ)の戦いで為信を窮地に追い込んでいる。翌年にも愛季は津軽に出陣するが、ついに浪岡城の回復は成功できなかった。
愛季の津軽侵攻後、天正十年(一五八二)、三戸南部家継承を実現した信直は、弟政信を浪岡城に入部させて津軽郡代とし、大光寺城も奪回したと伝えられている(史料一〇四二~一〇四四)。為信はいったん獲得した領土を失ったということになる。為信は安藤勢との戦いという苦境のなかで、南部氏に降伏を余儀なくされ、和約を結んだ可能性があるという。そして、南部信直にとっても、天正九年には愛季が鹿角に出陣し南部勢と戦っていることなど、為信との和約は必要であったという。