幕府や藩の財政はすでに江戸時代前期から傾きだし、その建て直しのために努力が払われた。幕府でいえば、五代将軍徳川綱吉の時代にとられた大老堀田正俊(ほったまさとし)の主導による「天和の治(てんなのち)」の年貢増徴策や、元禄期の勘定奉行荻原重秀(おぎわらしげひで)による貨幣改鋳策、次の将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)のもと側用人間部詮房(そばようにんまなべあきふさ)・新井白石(あらいはくせき)が主導した「正徳の治(しょうとくのち)」における貨幣改鋳や海舶互市新例(かいはくごししんれい)などの諸政策がそれに当たるし、津軽弘前藩でいえば貞享四年(一六八七)の領内統一検地による年貢増収策などがこれに当てはまるであろう。
従来、藩がとった領内の新田開発や検地などによって年貢を増徴しようとする策は、開発すべき土地に限りがあったり、農民層に過重な負担を強いることで、結局農村の疲弊につながってしまった。そこで、商品貨幣経済が主流となっていくこの時代にあって、新たな特産物を作り出して、その売買を図り、それで得た利益を取り込み、藩財政の運営を円滑にしようとしたのである。