延宝期の場合、検地の目的は生産量の把握と土地の丈量とにあったとされている。しかし、検地打出分の蔵入地(藩の直轄地)編入を原則禁止とする一方で、知行地不足の給人の私的な土地の交換を禁正し(「国日記」延宝七年十月二十七日条)、現実の土地領有の関係をまったく変更する意図はなかった。
蔵入地と給人知行地との関係は、すでに寛文期には、藩の許可を得ない蔵入地相互、または、蔵入地と給人地との間での交換は禁止されていた。また、給人知行地は、給人自身による畑から田への地目変更は禁止された。知行地不足の給人が、畑から田に地目変更をする場合、検地を受け実際の生産高と都合をつけることになっていた(「御定書」一五二)。このことは、畑を田に変換することで生産高を上げて不足分を補うこととし、さらに検地によってそれを確認し、生産高と知行高との同一化を目指すものであった。そして、その地目の変更・土地の領有関係の変更は、小字ごとに書き上げられた「惣御検地大帳」に登録し、蔵入地と給人知行地とを一元的に掌握しようとしたのである。
寛文年間以降、津軽半島北部や岩木川下流域、そして、下ノ切地域を可耕地に変えるために、藩主導のもとに大規模な開発が進められた(盛田稔・長谷川成一編『図説青森県の歴史』一九九一年 河出書房新社刊、長谷川成一他『青森県の歴史』二〇〇〇年 山川出版社刊)。前期検地の竿入は、こうした開発地に集中する傾向があった。つまり、開発地の生産力の増大を把握して、「高」の確定を図るものであった。前期検地の目的の一つは「高」を確定することにあったということになる。