騒動が一段落すると、藩は首謀者の逮捕を開始した。逮捕者は合計で四六人、うち名目上筆頭とされた落合専左衛門ら、頭取と見なされた者たち(一〇人)は苗字を持つ上層町民が多い。落合は当時七十二歳の老齢で、酒造業を営み町年寄も勤めた顔役的存在であった。また寺子屋を開き俳人としても知られた教養人でもあったが、訴状の下書きを書いた責任で首謀者と見なされ、逮捕者の中で唯一獄死した。訴願書にみられる藩政・町政の動向や米穀流通の実態に関する視野の広さや、町を総動員する企画力・統制力は町の共同体に基盤を置く、頭取層の性格を反映している。頭取層以外は主として中層の町民および借家層で、騒動をあおった者、打ちこわしをした実行犯などに分類されている。しかし、落合を除いて十月末までに全員が釈放されたので、全体としては軽い処分になった。惣町騒動(そうまちそうどう)という性格から、首謀者の特定が難しかったという側面はあるが、さらに凶作という状況下において、町民の行動に正当性があり、藩としても融和的な政治的譲歩をせざるをえなかったというべきであろう(原田伴彦『近世都市騒擾史』一九八二年 思文閣出版刊)。
青森騒動は町の構成員の多くが参加し、特権商人と闘った「惣町一揆」の典型として注目されてきた。天明期には初めて打ちこわしの運動が全国的に展開したが、当騒動は惣町訴願と打ちこわしを中心に、廻米停止・米留番所廃止など藩の政策に異議を唱えた要求の政治性が高く評価されてきた。近年はさらに米改めを行った町民の自立制についても研究上の注目が集まっている(岩田浩太郎「都市騒擾と食糧確保」『民衆運動史三 社会と秩序』二〇〇〇年 青木書店刊)。