藩として独立したとはいっても、領内の体制が転換したわけではなく、基本的には旗本時代とほぼ同様の政治・経済の状態であった(以下、『黒石市史』通史編I 一九八七年 黒石市刊による)。本藩の津軽弘前藩への従属は変わらず、幕府への報告は、本藩を経由して届けられ、逆に幕府からの通達は、これも本藩から伝達された。また黒石藩は、弘前藩一〇万石内における一万石の内分分家大名として幕府から認知され、それにしたがって、文政四年の江戸城鍛冶橋門(かじばしもん)警護などの公役(くやく)を課されていたのであり、非常事態においては、本藩同様の軍事動員を命じられていた。しかし、これとて本藩の動向と切り離された形で負担させられたものとは考えがたく、本来的には本藩たる弘前藩の軍役体系の中に包摂されていたと考えるべきであろう。幕府も、弘前藩の黒石藩に対する軍事指揮権等の優位性、絶対性をおおむね認める立場をとった。
経済財政面では、天保十一年(一八四〇)一月、弘前藩から黒石藩への津出し米に関する指令にみられるように、黒石藩の廻米は届出制ながらも、ほぼ完全に弘前藩の管理下にあった。それはとりもなおさず、黒石藩の生産状況が逐一弘前藩によって掌握されていたことを示す。弘前藩の財政再生産の一部として、黒石藩は位置づけられ、強い従属性を持っていたといえよう。