その後の流れを示すと、廃藩置県に至るまで、漆栽培奨励策そのものは続けられ、特に幕末は国益政策のもと幕府の奨励もあり、北奥諸藩では一種の漆ブームというべきものが起こるのである。
新庄藩では安政二年(一八五五)に漆増殖の一五ヵ年計画を打ち出し、米沢藩では漆の一二〇〇万本増殖という過大な計画を打ち出している。さらに幕府の直轄領となった箱館でも漆の試験的栽培が行われているほか、遠く網走(あばしり)の周辺でも栽培の試みが行われているのである(モンベツ御用所文書、北海道立文書館蔵)。津軽領でも、嘉永三年(一八五〇)に漆の九〇〇万本増殖計画という方針を打ち出した。これに伴い制度的改革も行われ、漆役(漆守を改称、世襲制度なども廃した)を統括する役職として漆大仕立役を新設、さらに漆役に準ずる役職として「漆小仕立役」も新設、漆役になるほど経済力のない農民でも漆を栽培させられるなど、農村におけるきめ細かい変革がなされた。しかし、三〇〇万本計画でさえどれだけ現実に実施されたか不明であり、九〇〇万本増殖計画がどの程度現実性があったか疑わしいが、少なくとも代官所へ報告される数値は確実に増えている。たとえば赤石組の場合文政元年に五万八〇〇〇本余だった漆木が、文久元年(一八六一)では一四六万六〇〇〇本余に達している(『鰺ヶ沢町史』二)。しかしこの数値には相当数の苗木・幼木が含まれていると思われ、実際に樹液や実を採取できる成木は一握りであったであろう。現実には明治維新の段階で国産品として成果を収めるには至らなかったと思われる。明治三年(一八七〇)の津軽弘前藩の殖産興業に関する通達でも、漆は楮・桑などと並んで栽培を奨励すべき樹木の一つに指定されているが、一方で漆役の栽培ぶりの不徹底さも指摘されており、漆栽培をめぐる藩の試行錯誤は廃藩まで続くのである。