「国日記」寛延三年(一七五〇)五月三日条によれば、大重院(だいじゅういん)の修験(しゅげん)(山伏)が修験にあるまじき行為をしたため、薬師堂(やくしどう)からただちに追院(ついいん)となり、弘前および薬師堂、兼平(かねひら)の天満宮(現中津軽郡岩木町兼平)境から三里四方御構(おかまえ)(立ち入り禁止)となった。
大重院は医王山大重院教円寺(きょうえんじ)と称し、大行(だいぎょう)院(宝暦四年〈一七五四〉新寺町の報恩寺隣接地から現西茂森一丁目の天満宮境内へ移転。のち廃寺)支配の薬師堂で、明治初年の神仏分離により石戸(いしと)神社(現中津軽郡相馬村湯口)と改められている(『青森県の地名』一九八二年 平凡社刊)。