博奕の判決例

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博奕には右に示したような種類があり、実際に行われていたことが「国日記」によって知られる。しかし、具体的にその実態がどのようなものであったのかは、まったく不明である。そこで、城下博奕を行った者たちに対する判決例の中で、比較的細かく記されているものを示し、藩の博徒に対する処置についてみてみたい。
 「国日記」享和三年(一八〇三)四月二十三日条によれば、享和二年に藩士棟方善八の家で博奕が行われた(その月日は不明)。そこに集った者全員の名前および博奕の中心人物は明らかではないが、棟方善八は博奕をやってはいないが場所を提供した罪を問われ、俸禄を半減され、役職は御目見(おめみえ)以下の御留守居支配(おるすいしはい)へ「役下げ」を申し渡された。実行犯である倅の又次郎は、親の善八へ「預り」となり、「他出差し止め」となった。
 また前科一犯の和徳町(わとくまち)の与八(町人と思われるが職業は不明)は、博奕仲間の一人であり、鞭刑三鞭・弘前城下より三里四方追放、鍛冶町(かじまち)の長右衛門(町人と思われるが職業不明)も与八と同じ仲間で、鞭刑三鞭・弘前城下から三里四方追放となった。この二人に対しては、「寛政律」の項目「博奕」の第一四七条「一、博奕致候者鞭三其時之金銀ハ没収可致事、但宿致候者可同罪事、」(蝦名庸一「弘前藩御刑法牒(寛政律)」『弘前大学国史研究』第一五・一六合併号)が参照され、追放刑も加わった二重仕置で柔軟性のある判決(申し渡し)であった(第四章第三節五(二)参照)。
 無宿の安之助は博奕には参加していないが、博奕仲間の走り使いをして銭をもらったことにより、博奕仲間と見なされ、弘前追放となった。これは、「寛政律」の右の規定を踏まえた申し渡しであろう(司法制度については第四章第三節五(一)参照)。